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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年02月28日  四旬節第2主日  B年(紫)  
あなたは独り子すら惜しまなかった  (創世記22・16)

イサクの犠牲
ブロンズ浮彫  ロレンツォ・ギベルティ作 
フィレンツェ 国立バルジェロ美術館 1401年

 ロレンツォ・ギベルティ(1381年頃~1455年)は、フィレンツェ出身の金銀細工師、彫刻家、建築家である。本作は、フィレンツェで1401年にサン・ジョヴァンニ洗礼堂第2扉を飾る浮彫作品の制作コンクールに出品されたもの。その課題がこの「イサクの犠牲」であり、最終的にフィリッポ・ブルネレスキ(1377年-1446年)との競い合いになり、ギベルティが同洗礼堂での制作の権利を得た。今日、両作品とも同地の国立パルジェロ美術館に収められている。ギベルティは、その後、同洗礼堂の第3扉を飾る、旧約聖書題材の10枚の浮彫パネルを制作し、後年、ミケランジェロに「天国の扉」とたたえられることになる。
 さて、課題作として出品されたこの「イサクの犠牲」のエピソードが、きょうの第1朗読の箇所である創世記22章1-2, 9a, 10-13,15-18)にあたる。中央にアブラハム、(向かって)右側の祭壇のうえにひざまずいているイサクをまさに屠ろうとしたところ、天から主の御使いが現れるところを描いている。まさに、この話のクライマックスを刻んでいる。(向かって)左側にはロバ、そして見分けにくいがその上のほうには、木の茂みの中にいた一匹の雄羊(13節参照)が描かれている。
 劇的展開が極めて印象深い、この話を、教父たちはキリストの出来事を前もって表すしるし(予型)として解釈してきた。その場合、オリゲネスやエイレナイオス(イレネウス)に代表されるように、ささげられるものとされたイサクのうちにキリストとその受難を見、息子をささげるアブラハムの姿に御父である神を見るという見方が多く、この四旬節第2主日B年の朗読配分も、一応は、この後者の解釈を踏まえているものと考えられる。
 福音朗読箇所では、四旬節第2主日の毎年共通の主題であるイエスの変容の場面がマルコから読まれる。受難予告に続く出来事として変容は、イエスの死と復活を前もって示す意味をもっていた。そして、ここに御子をささげる御父の心が開示され、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)と告げられる。この「わたしの愛する子」という言い方が第1朗読の箇所に登場するイサクを表現する文言「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」(創世記22・2)、「自分の独り子である息子」(同22・12、16)という表現は、たしかに、福音朗読箇所における「これはわたしの愛する子」とイエスを呼ぶ神の声と重ねって響いてくる。イサクはイエスの予型のようである。そして、第2朗読箇所であるローマ書8章31節b-34節では、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(32節)として父である神のことが言われているので、アブラハムのうちに父である神を見るのは適当ではあろう。御父である神のみ心が強調されるのである。
 このように、アブラハムを主体として見つつ、父である神のみ心を思うことが大切なポイントであることは確かであろう。だが、同時に、イサクの存在とその思いにも注目する必要もある。いっさい言葉を発することのないイサクの従順は、ある意味では衝撃的ですらある。そこには、アブラハムとイサクの思いの一致を見ることが大切である。それは、同時に、受難の道を歩むイエスが御父と交わす対話の機微(福音書が克明に記している)を味わう手がかりともなる。
 さらに、アブラハムについては、第1朗読箇所の末尾で「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22・18)とあり、神に従う人の祖として語られている。このことのほうがアブラハムの召命の本筋である(創世記12・1-3参照)。アブラハムは信仰の従順によって祝福される人類の父である側面も重要である。福音朗読でいわれる「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)という神の呼びかけを受ける人間の側の祖であり、模範であるという姿である。神の一見理不尽な呼びかけに対して、彼は一切不平を言うことなくひたすら従った。イサクもそうである。二人にとっては、いのちがかかった自己奉献の命令にひたすら従ったことに対して、祝福が与えられることになり、アブラハムを継いでイサクも後の世代の祖となっていく。この父子に神の民の予型が確かにある。このように、神のみ心(御父と御子の一致した思い)だけでなく、その神に呼ばれて従う人間の姿をアブラハムとイサクの出来事のうちに見ていくとき、ますます味わいが深くなる。
 これらの出来事のうちに、神のはからいが示される時が一瞬であることも重要である。イエスの変容の時、そしてアブラハムに主の御使いが現れる時も、生き生きとした一瞬である。一瞬における神の働きかけ、神と人との交わりが、人の人生や人類の歴史を変えていくという真実も、ここに暗示されている。


 きょうの福音箇所をさらに深めるために

四旬節第二主日
 山の上の出来事のねらいはイエスが誰であるかを弟子たちに教えることにある。しかも、イエスは常に受身であるから、教えるのはイエスではなく、神である。変容はイエスの正体を垣間見させる出来事であるが、その正体は2節の「姿を変える(メタモルフォオー)」によって示される。

雨宮 慧 著『主日の聖書 B年』「四旬節第二主日」 本文より

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