2021年03月21日 四旬節第5主日 B年(紫) |
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう (ヨハネ12・32) 十字架と天上のキリスト ステンドグラス フランス ポワティエ司教座聖堂 12世紀 きょうの福音朗読箇所ヨハネ福音書12章20-33節は、いろいろと重要なことばにあふれている。24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」は、意味合いとしてもイメージとしても印象深く、格言的にもよく知られている。それとともに、末尾のほうで告げられる「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)も、ヨハネ福音書自身による次の解説句「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33節)と併せて読むことで格段に深くなる。 きょうの表紙に示したステンドグラスの図は、このことばに関連づけられている。ここでは、中央に、十字架に磔にされたイエスが、そして同じ画面の真上に、天上に昇ったイエスが光背の中に描かれている。十字架のイエスの両脇には、二人の兵士、すなわち槍でイエスの体を突き刺す兵士、海綿を渡す兵士が比較的大きく描かれている。イエス自身はなお目を開けており、その姿勢も少し屈曲しただけで、それほど残酷さが強調されているわけでもない。そして(向かって)左側にはマリア、右側には使徒ヨハネという磔刑図の定型要素となる人物たちが描かれており、天上のイエスの両脇の下には地上から天上を見上げる人々が描かれている。このように、昇天の図が十字架の上に同時に描かれるという構成を通して、一言でいえば、「主の過越」が表現されている。信仰宣言で唱える使徒信条にある「(主は)……十字架につけられて死に、陰府に降り、三日目に死者のうちから復活して、天に上って、全能の、父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」の部分にあたる内容がここに集約されている。 光背の中にいるのはまさしく荘厳のキリストである。ミサの集会祈願の結びで唱えられる「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリスト」にほかならない。天上にあって万物、万人を治め、導いている方としてのキリストの姿は、しかし、まさしく十字架の上におられるキリストである。「治め、導く全能の方」としての「神」の姿が十字架によって示されているといってもよい。 このような構成が、過越の神秘を観想するうえで、さらに重要になるのは、その色彩のゆえである。赤と青を基調とした彩りが印象的であろう。これはただ「きれい!」と感じさせるためだけではない。赤といえば、まずは、受難と死による血を連想させる。そして、青は、天や聖霊を思わせる色にほかならない。この対照が画面全体にリズムを生んでいる(ちなみに、赤と青は血液の動脈と静脈を象徴する色でもあり、その結びつきは、生きた血液の循環、いわば生命力を象徴するものとして味わってよいかもしれない)。 さらに、意味深いのは、十字架上のイエスの体がその赤と青を混ぜ合わせて生まれる紫色になっていることである。この紫色は、天上のイエスのまとう衣の色でもある。紫は高貴な色とされ、主の権威を象徴する色である。支配権を示す色が、十字架で自分の命をささげるイエスの体の色であるというところに最大の表現の工夫があるといえるかもしれない。「地上から上げられる」ということばに含まれる「十字架上に上げられること」と「天上に上げられる」という二重の意味に深く目を注いだ描き方といえるだろう。 十字架のイエスは、単にイエスの死の事実を示すものではなく、イエスの御父への「従順」を示すものでもある。このことは、第2朗読箇所ヘブライ書5章7-9節のテーマでもある。キリストは従順を完遂したことによって、すべての人にとって「永遠の救いの源」となっている(ヘブライ5・9参照)。この文言も、表紙のステンドグラス図の意味合いを見事に表現している。十字架のキリストと天上のキリストは一つのキリストであって、それゆえに万人の救いの源、救い主なのである。 さらに、十字架のイエスの姿も天上のイエスの姿も、ただ、我々と無関係に示されているのではない。それ自身が呼びかけである。福音朗読箇所にある「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(ヨハネ12・26)という直接の呼びかけが、この二つのイエスの姿には込められている。主の過越を記念する聖週間を間近にする四旬節第5主日……現代の我々に対するイエスの招きは、ますます深く、切実になっている。 |