2021年06月13日 年間第11主日 B年(緑) |
土はひとりでに実を結ばせる(マルコ4・28より) 木々の葉とぶどうと鳩 モザイク(部分) ローマ サンタ・コスタンツァ聖堂 4 世紀 古代ローマ美術で庭園を描く手法が残されているモザイクである。豊かに実った木、ぶどうの木もある。鳩もいる。孔雀もいる。平和な楽園の描写に見える。この光景とともに、きょうの聖書朗読を味わってみたい。 福音朗読箇所はマルコ4 章26-34節で、4 章1 節から20節まで語られた「種を蒔く人」の譬えと関連する譬えである。「種を蒔く人」の譬えでは、良い土地に蒔かれた種(神の言葉を意味する譬え)がすばらしい実を結んだとある。ここの内容を敷衍し、強調する意味で、まず26-29節の「成長する種」の譬えが置かれている(この譬えは、マルコだけが伝えるものである)。ここでは、良い土地に蒔かれたことというだけでなく、「土はひとりでに実を結ばせる」ことが言われている。これは、種が、人間の力によってではなく、神の言葉それ自身に含まれている力によって実を結ぶことを強調するものである。神の国それ自体の力、神自身の力の主導性についての教えと言えよう。続く30-32節の「からし種の譬え」は、どんな種よりも小さな種がどんな野菜よりも大きく育っていくという逆説のうちに、「神の国の秘密」(マルコ4 ・11)、神の国の真実が示されているようである。 この「秘密」という言葉(ギリシア語のミュステーリオン)は、ローマ書16章25-26節「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、……〈中略〉……すべての異邦人に知られるようになりました」という箇所で、「秘められた計画」と訳されている語である。隠されていた神の計画(神の救いの計画と考えてもよい)、それは福音書ではまさに「神の国」として告げられるものである。それが、今やイエス・キリストにおいて到来しており、すべての人に知られるべきものとなっている。成長する種、からし種の譬えが表そうとしているのは、やはり、そのような神の計画、その約束のことばの実現力の比類なさにちがいない。 そのことが、農耕生活において身近な種の生育の様子で語られるところに、自然の生命の営みのうちに、神の働きを見ているイエスの眼差しが感じられる。「土はひとりでに実を結ばせる」という「ひとりでに」の中に「神自身の力」が暗示されているのである。「自然」という日本語は「自ずと」という字を含んでいるが、そのことのうちに、神自身の力を感じ取っていくのが、キリスト教的な見方というべきものだろう。その意味で、キリスト教美術において描かれる自然の風物、鳥や麦、あるいは農耕の営みは、たんに自然の営みの描写や賛美に終わるものではなく、神の力、その働き、その恵みに対する観照の表現となる。そこには、神への賛美が込められているのである。 この作品と、もっとも響き合うのは、きょうの答唱詩編である。「神よ、すべてを越えるあなたの名をたたえ、あなたに感謝をささげることはすばらしい」(詩編92・2 典礼訳)。この賛美の気持ちは、神に信頼して生きる人には栄えが約束されているという希望へと広がる。「神の家に植えられた人は、わたしたちの神の庭で栄える」(詩編92・14典礼訳)。「神の家」も「神の庭」も「神の国」を意味する表現といえる。第2バチカン公会議の『教会憲章』5項も、きょうの聖書朗読箇所や答唱詩編を含んでの表現上の関連性に対応する叙述をしている。「〔神の〕国は、キリストのことばと行いと現存によって人々の前に現れる。実際、主のことばは、畑に蒔かれる種にたとえられる(マルコ4・14参照)。信仰をもって主のことばを聞き、キリストの小さな群れ(ルカ12・32参照)に加えられる者は、神の国を受けたのである。種は自分の力で芽生え、収穫の時まで成長する(マルコ4・26-29参照)」(改訂公式訳より) それとともに、「神の家」「神の庭」という表現は、「神の国」を一挙に身近なものにするともいえよう。我々は信仰において「神の家」に住む家族であり、「神の庭」に育つ植物や鳥である。特に「庭」は、神の前で神の命のうちに満ち足り、遊び戯れる喜び、神の恵みに生きる幸せをよく示す隠喩でもある。 このモザイク作品の中に見える、孔雀は、ローマ美術の中でもすでに不死を象徴するものとして好んで描かれていたもので、これがキリスト教美術では、永遠の命の象徴、楽園の象徴として描かれ続ける。「年を経てもなお実を結び、いつもいきいきとおい茂る」(詩編92・15 典礼訳)という答唱詩編と呼応する。鳩が平和や聖霊の象徴であるとすると、これらの鳥を描くことの神の国は十二分に表されている。 第2 朗読(二コリント5・6-10)で読まれる「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」という使徒の心からの希求のことばも、これらの表象に重ね合わせることができるだろう。 |