2021年08月22日 年間第21主日 B年(緑) |
「主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ6・68より) イエスとペトロ モザイク ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀 きょうの福音朗読箇所は、年間第17主日からずっと読まれてきたヨハネ6章からの朗読最後にあたる(ヨハネ6・60-69)。自分のことを天から降ってきた命のパンだとあかしするイエスの話に対して、なんと弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)とつぶやく。これに対するイエスの言葉は、嘆いているようにも失望しているようにも、また怒っているようにも、諦観しているようにも響く。そして、ある種、突き放したような言葉(65節参照)を放つと、「弟子たちの多くが離れ去り」(66節)という事態になる。 この場面に登場している弟子たちは、イエスが特別に選んで自分の近くに連れていた十二人(十二使徒)とは違う、もっと広い意味でイエスに従いかけていた一群の人々であることがわかる。ヨハネ6章でのイエスの自分自身に対するあかしは、これら広い意味での“弟子たち”とは袂(たもと)を分かつこととなった。そこで、イエスはついに、自らが特別に選んだ十二人に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う(67節)。そして、シモン・ペトロがこの文脈でのクライマックスといえる信仰告白をするのである。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68-69節)と。 これは、我々の日本のミサで、聖体拝領前の信仰告白の中に採用されている言葉なので、なじみ深い。ただし、前後の文脈からすると、ペトロはいかにも模範回答をもって宣言しているようにも聞こえる。その後のペトロのイエスに対する態度の紆余曲折の伏線であるかのように響くのである。 さて、表紙に掲げられているイエスとペトロの対面の図は、実は、この場面の絵ではない。これは、ヨハネ13章のイエスがペトロの離反を予告する場面である。ヨハネ6 章のペトロの信仰告白の意味をより深く考えるために、ぜひとも重ね合わせてみたい場面なのである。ペトロの離反の予告については四福音書すべてに出てくるが、ここでは、朗読箇所との関係で、ヨハネ13章36-38節に注目しよう。 そこでは、まずペトロがイエスに言う。「主よ、どこへ行かれるのですか」(36節)。イエスは答える。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(36節)。我々には、ここで復活の後のペトロの行く末が暗示されていることがわかるが、この瞬間でのペトロの返事は、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(37節)である。それに対して、イエスはペトロの否認(離反)を予告する。ペトロの否認のしるしは「鶏が鳴く」(38節)ことであった。この絵でもそうだが、イエスとペトロの間には、この鶏が否認の暗示として描かれている(否認そのものは、ヨハネ18章15-18節と25-27節参照。他の三福音書すべてでも述べられている)。 ここでのペトロとイエスの対話の中では、イエスがどこへ行こうともついて行くという使徒の姿勢が主題となっている。明らかにヨハネ6章の「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」という宣言が前提にある。その決意宣言の真否がイエスによってここで問われているのである。現実にはイエスの弟子であることに対するペトロの否認という結末に向かう(18・17、25、27)。しかし、イエスとペトロの関係はこれで終わったわけではなかった。ヨハネ21章には、復活したイエスの現れを迎えた7人の弟子とのエピソードが描かれ、その中でペトロの姿が浮彫りにされる(ヨハネ21・1-14)。続いて、ペトロはイエスから「この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)と問いかけられ、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答える。この問答がもう2回繰り返される(21・16-17)。三度の否みはこうして乗り越えられるのだが、注目すべきは、「愛しているか」に対するペトロの答え方が「はい、愛しています」といった、前の意志宣言のような答え方とは違うということである。主を愛するということは、復活したイエスとの出会いによって呼び起こされ、実現されている事実なのであり、そのことを主に知られていることへの承認を端的に述べるだけの答えになっているのである。自分の意志を真正面から直言的に宣言することが信仰告白ではないことがここに示されている。 我々のミサにおける拝領前の信仰宣言「だれのところへ行きましょう(=どこへでもついて行きます)」も、単なる上滑りの意志表示にとどまっていてはならないという諭しを、感じ取ってみたい。 |