2021年09月05日 年間第23主日 B年(緑) |
神は来て、あなたたちを救われる (イザヤ35・4より) 口の利けない人をいやすイエス フレスコ画 スイス ミュステール修道院 9世紀 スイス、ミュステール修道院の聖堂壁画に描かれるイエスの生涯の諸場面の一つである。古い絵で輪郭線や彩色もはっきりしなくなっているが、中央のキリストといやされる相手の人物が両脇の人物より大きく描かれ、しかも、相手の人物の口に伸ばされたイエスの手のしぐさ、それを受けるその人物の姿勢が、非常にダイナミックに描写されている。ミュステール修道院とは、スイス東部グラオビュンデン県にあるベネディクト会修道院。 800年頃、フランク王国(カロリング朝)で重きをなしたクールという町の司教が創建し、やがて財産や人事を国王が管轄する王国修道院として位置づけられた。この壁画は、ローマの壁画(フレスコ画)の伝統を受け継ぎつつ、10-11世紀(オットー朝時代)に開花する写本芸術に至る過渡期を示す例といわれる。丹念に聖書を読み、黙想し、キリストの神秘を自分たちの心の中に思い描いていった修道者たちの無言の営みを感じることができる。 救い主であるイエスと、イエスとの出会いによって救われる人。この両者の姿勢は、ただ単に口の利けないことのいやしという出来事にとどまらず、キリストと人々との出会いのすべてに思いを向けさせる。絵には、そのような働きがある。一つの場面を描きつつも、具象的に表されている事柄のより深い次元を考えさせる。絵の持つそのような機能を思い浮かべながら、聖書の本文に向かうと、逆にそこで物語られる出来事が、もっと深く広い次元のことを表していることに気づかされていく。実際にはミサの聖書朗読も、そのように、聴く人が、福音朗読で語られる出来事をより深くとらえることができるように、導いていく構造になっているのである。復活節を除いて主日の第1朗読に配分されている旧約聖書は、福音朗読と重ね合わせてみるとき、その背後に働いている神の救いの計画全体に目を開かせてくれるのである。 きょうの例で見てみよう。福音朗読箇所マルコ7章31-37節で語られるのは、イエスがガリラヤ湖畔で出会った舌の回らない人のいやしたという出来事である。このエピソードも、単にその人が救われた、という単独の一時的な出来事にとどまらない意味をもっている。何か、より偉大なことを示すしるしなのである。そのことに気づかせてくれるのが、第一朗読のイザヤ書35章4-7節の内容である。すなわち「神が来て、あなたたちを救われる」(4節)しるしとして、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」とあり、「歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌う」(5-6節)。この場合の「あなたたち」はバビロン捕囚を体験したユダの人々を指しており、彼らが神を悟る目、神のことばを聞く耳、神を礼拝するために集まる足、賛美する口を回復するということが暗示されているという。それは、神のもとに心から立ち帰り、神との交わりによって生きる民が必ずや復興されるという、力強い約束のメッセージである。 いやしという個人の苦しみからの解放が、それだけで完結せずに、もっと大きなことの一つの現れなのだという感覚は福音書におけるイエスのいやしの奇跡に貫かれている。いやされた人、あるいはそれを目撃した人々が、イエスの行ったことの素晴らしさ、イエスという人の尋常ならざる力を、思わず言い広めていくという記述は、それぞれの奇跡の叙述で見られる。神の子としての力の発揮は、それ自体が自らを告げ知らせていく力を宿している。神のみわざが人間世界の中で顕現するときの一つの姿である。我々としては、このときのイエスの行い、すなわち、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』と言われた」(マルコ7・33-34)が、どのような医療行為であったのかも気になるところだが、重要なのは「天を仰いで深く息をつき」であるらしい。「天を仰ぐ」とは、御父である神に祈るときの言い方である。そして「深く息をつき」は「うめく」とも訳される言葉で、病者の苦しみと一つになっていることを示すという(この日の『聖書と典礼』の脚注参照)。つまり、御父と一つになり、また病者に寄り添い一つになっている。イエスは、神と病者を結びつけ、神のことばを発することで、神の力をその人に注いでいるのである。そこに真の意味でのいやしがある。そして、このこと自体が、救い主の到来によって人類が新しい神の民となるよう招かれていることのしるしなのである。この絵の中のイエスといやされる男の姿は、救い主と人類、キリストと神の民の関係の始まりをも示している。一人の人のために行動し、力強く「エッファタ」と言う、イエスの姿は、きわめて力強い。このようなイエスの存在と力に生き生きと触れられるのが、本当はミサの意味でもある。福音のことばとイエスの姿に対して、心を研ぎ澄ますとき、主はおのずと自らを明かされるのであろう。 |