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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年11月21日  王であるキリスト  B年(白)  
わたしが王だとは、あなたが言っていることです (ヨハネ18・37より)

ピラトの前のイエス
ローマ ラテラン美術館
4世紀

 きょうの福音朗読箇所はヨハネ福音書の受難叙述の中の18章33b-37節で、これは、聖金曜日の受難朗読で読まれる箇所の一部にもあたる(並行箇所はマタイ27章1-2節、11-14 節、マルコ15章1-5節、ルカ23章1-5節)。ヨハネ18章36節で、二度繰り返される「わたしの国は、この世には属していない」、そして、37節の「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」というイエスのことばがはっきりとしてメッセージとして我々の心に刻まれる。しかし、興味深いことに、この日の福音朗読の主題句は、37節からとられて「わたしが王だとはあなたが言っていることである」となっている。
 イエスとピラトとの対話に含まれる、微妙なニュアンスのほうに注意を向かせるような選択である。イエスが王であるという意味はどういうことか、イエスが王である国とはなにかというテーマである。第1朗読、第二朗読もこのテーマをポジティブにめぐっている(第1は、来臨する「人の子」の統治が永遠のものであると予告するダニエル書7章13-14節、第2は、神の永遠の支配をずばり主題とするヨハネ黙示録)
 表紙絵に示したのは、キリスト教美術の創成期の代表形態である石棺彫刻に描かれたピラトによるイエスの尋問の場面である。(向かって右側の少し高い座にいるピラトも、イエスも、ローマ風の青年像で描かれている。よく見ると、ピラトの右手は小さな水盤に浸けられており、その後ろから従者が水を注いでいる。これはマタイ27・24にある、「ピラトは、……水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」という場面にちなむ。
 イエスの表情はどうだろうか。ピラトを見つめて、悲しそうな、憐れんでいるような表情をしている。これに心を留めながら、朗読箇所の前後も含めて、ヨハネ18章28節から19章16節までのピラトが登場する箇所全体を見ていこう。ピラトは総督官邸に入って、イエスを呼び出して尋問する(18・33)。「お前がユダヤ人の王なのか」(18・33)。これに対して、イエスは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそういったのですか」と聞く。イエスからの逆尋問である。それに対して、ピラトが弁明すると、イエスはさらに言葉を重ねて説明し、その中で「わたしの国は、この世に属していない」(36節)と明確に告げる。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(18・37)は、他の福音書と同様な答え方であるが、さらに「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」という自己証言が続く。ヨハネ福音書独特の展開である。
 ピラトは尋問の中の問いかけの中で、実はイエスの本質に無意識のうちに触れていき、いわば(逆説的に)イエスをあかしするかたちになっている。このやりとりは、おそらく真理とは何かを考えたこともないであろうピラトに、「真理とは何か」(38節)という問いまで発させる。ほかに「いったい何をしたのか」(35節)、「お前はどこから来たのか」(19・9)という問いも、形としては、イエスとは誰かについての本質的な問いかけに映る。結局、ピラトはユダヤ人たちの圧力に押されて、イエスを十字架につけることを命じる(19・6以下)のだが、そのさなかで言った「見よ、あなたたちの王だ」(19・14)という言葉は、彼の意図を超えてイエスに対する証言といった響きさえ帯びる。
 これらを見ると、この場面は、ピラトの尋問ではなく、イエスの尋問である。ピラトの前にイエスが呼ばれているのではなく、イエスの前にピラトがいわば異邦人世界の代表者として呼ばれている。そのピラトに対するイエスの気持ちを、この石棺彫刻が表現しているように思える。イエスは悲しみ、憐れんでいる。十字架につけられるイエスの心を、深く、想像させてくれるのではないだろうか。使徒信条で「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と、我々がその名を唱えるとき、神の計画の中にあり、神の国のこの世の国の出会いと対決の瞬間にいた人物として思い起こすことが大切なのかもしれない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

宗教対話
 宗教用語は単なる記号ではない。しばしば、一字一語にその宗教の生命がかかっていることがある。それは、それぞれの生活と文化の大地に深く根を下ろしているだけに、ほとんど翻訳不可能というしかない場合がある。一例として、どの宗教にも欠くことのできない根源語としての「神」ということばがある。この日本語の「神」ということばが日本人にとって意味するものは「エロヒム」、または「ヤーウェ」というヘブライ語がユダヤ教信徒にとってもつ意味とは、はなはだしい距離があるに違いない。このことは、ギリシャ語の「テオス(Theos)」、ラテン語の「デウス(Deus)」にしても、他のどのような言語にしても同様である。このことについての一つの興味ある体験を参考までに取り上げてみたい。

『奥村一郎選集 第2巻 多文化に生きる宗教 解説:橋本裕明(名古屋芸術大学教授)』「第一章 大いなる賭け」本文より

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