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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年12月05日  待降節第2主日  C年(紫)  
「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(福音朗読主題句 ルカ3・6)

洗礼者ヨハネ
テンペラ画
キプロス コロナリの聖ニコラス教会 16世紀

 現在のキプロス共和国は、古くは、パウロの第1回宣教旅行にも登場する初期からの宣教地である(使徒言行録13・4-12参照)。ギリシア正教会の地となり、16世紀にはオスマン帝国の支配下に入るが、そこでも正教会の主教が総督の地位を認められ、イスラム帝国の中でもキリスト教の伝統を守っていった。
 このイコン形式のテンペラ画の洗礼者ヨハネは、とても、明るい。頭の後ろの光輪も太陽のように輝いている。このような描法が、きょうのルカ福音書によるヨハネ登場の叙述とよく響き合うのである。
 洗礼者ヨハネの登場、イエスが彼から受けた洗礼の出来事は、四つの福音書が共通して伝えるものだが、その言及の仕方には違いが現れる。マルコ、マタイは、預言者の引用句は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ40・3、さらにマラキ3・1参照)で終わっているのだが、ルカ3章3節から6節はこの句から引用が始まり、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というように、イザヤ40章4-5節までを踏まえたものになっている。
 こうして、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼をのべ伝え始めたことが、イエスの登場をも見据えるようにして、万人に対する神の救いの訪れの始まりとして語られている。何度読んでも驚かされるのだが、ルカ3章18節では、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」と述べられている。イエスの活動の代名詞ともいえる福音宣教をすでにヨハネのこととしても語られているのである。ルカにおいては、洗礼者ヨハネの姿は、こうしてすでに全面的にイエス・キリストの光の中で思い起こされ、イエスの福音宣教にまっすぐに連なる存在として位置づけられているようである。ルカ福音書によるイエスの誕生に関する叙述の中で、限りなく対等に近い位置で洗礼者ヨハネが語られていることもこれと関連していよう。
 洗礼者ヨハネは、このように、神の救いが来ていることをあかししているという点で、限りなくイエスに近い。そのことを考えながら、この画の洗礼者ヨハネを見ると、まさしく、すでにどこかキリストのようでもある。もちろん、そうでありつつも、自ら頭を下げ、両手を(向かって)左のほうに向けている。あくまで自分の後に来られる方(イエス・キリスト)を指し示しているのである。
 さて、待降節主日の福音朗読の展開をあらためて考えてみよう。第1主日では、終末における来臨のための準備(目覚め)がテーマとなり、第2主日、第3主日では、洗礼者ヨハネがクローズアップされる。つまり、洗礼者ヨハネの登場と彼による真の救い主の到来の予告が焦点となる。終末における主の来臨への待望の中で、いわば救いの歴史を現在から逆に遡られていき、イエスの登場そのものを準備した洗礼者ヨハネが思い出される。やがて、いよいよ待降節第4主日では、イエスの誕生の直前の出来事が想起され、主の降誕でイエスの誕生、その生涯の始まりが明確な主題となる。そしてこの待降節~降誕節という一続きの季節が主の洗礼の祝日で締めくくられることを考えると、主の洗礼という出来事が、神の子の顕現を主題とするこの典礼季節において重要な位置にあることがわかる。
 ルカ福音書の文脈に即せば、マリアの賛歌で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1・47)、ザカリアの預言で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を、主はその民を訪れて解放し……」(1・68以下)とすでに予告され、誕生の夜に天使が「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」(2・11)と告げられている。この流れすべてがこの洗礼者ヨハネの登場に関するイザヤの預言の引用にも流れ込んでいるといえる。
 待降節第2主日C年の第1朗読箇所バルクの預言5章1-9節は、もう、救いの到来を予告している。「神は天の下のすべての地に、お前の輝きを示される」(3節)。「お前は神から『義の平和、敬神の栄光』と呼ばれ、その名は永遠に残る」(4節)。すでに救い主は今や、洗礼者ヨハネの先駆けのうちに、人々の前に立ち現れている。すでに、神の国の福音が告げられ始めている。そのような見方を強調している。待降節が(原語のラテン語アドベントゥスAdventusに即せば)まさしく「到来の季節」であることが鮮やかに示されている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 言葉には二通りの使い方があると言える。例えば、幼児が母親に″飲む物が欲しい″と訴える場合、実際にのどが渇いていて飲み物を要求することもあるが、ある場合はのどは渇いていないのに母親に甘えたくてそう訴えることもある。渇いているのはのどではなく心であり、欲しいのは水ではなく母親の愛である。このように、言葉は起きている現象や事柄をただ客観的に叙述するために用いられるだけではなく、当事者の間にあって欲しい関係を表現するためにも使われる。
 聖書を読むとき、この区別を念頭に置く必要がある。聖書の言葉には、現象を客観的に叙述するというよりは、関係を表現するために使われる言葉が想像以上に多いからである。きょうの福音に現れる″道″もそんな言葉のひとつに挙げられる。

雨宮 慧 著『主日の福音 C年』「待降節第二主日」本文より

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