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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年12月26日 聖 家 族 C年 (白)  
両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた  (福音主題句 ルカ2・46より)

学者たちの中の少年イエス
イコン
ロシア ノヴゴロド歴史建築博物館 15世紀

 広い意味でロシア・イコンの範囲に入るが、そのうちのノヴゴロド派イコンとも称されるもののうちで「学者たちの中の少年イエス」の場面である。ノヴゴロドとは中世ロシア(ルーシと呼ばれた)の中心都市。キエフと並んで、10世紀末からキリスト教統一王国を目指す王権の象徴として壮麗な石造の聖堂建築が開始される。11世紀からはそれらを舞台とするイコンが数多く制作されるようになる。12~13世紀が第一の開花期、14世紀末~15世紀が第二の、そして最大の開花期といわれる。表紙のイコンはその中のキリスト生涯図の一場面である。
 ノヴゴロド派イコンは、人物像のみをクローズアップするものが多いが、この作品にも見られるように、福音書の舞台であるエルサレムや神殿を、当時の中世ロシアの建築のイメージを投入して描き出している。背景に濃い黄色を使うのもここのイコンの特徴である。聖性の象徴という意味合いがある。このイコンが制作された15世紀は、それまでの神秘主義的感性とペシミズムの情調に対して、明るいオプティミスムが強く現れたという(A.I.ゾートフ『ロシア美術史』石黒寛・濱田靖子訳 美術出版社刊 1976 101-108 ページ参照)。そのような雰囲気はこの作品にも十分感じられよう。
 さて「学者たちの中の少年イエス」の場面は、イエスの生涯の連続画の中で、幼少時代の逸話として頻繁に描かれた。その際に、少年イエスを教師のイメージで描くのが一つの典型となる。古いローマの石棺彫刻にも見られる教師としてのイエスがその源流にある(その場合は青年像イエス)。このイコンも学者たちの真ん中に座すイエスの姿が非常に大きく描かれ、強調されている。神の御子としての権威が示されている。そして周りの学者たちは、この輝かしい少年イエスの姿に圧倒されつつ、こもごも反応しているようである。
 きょうの福音朗読箇所ルカ2章41-52節で、ここの場面はエルサレムでの過越祭参加のあと、両親が帰路についたときイエスがいないことに気づかず一日分の道のりを進んでしまった。どうしたのか捜しながら、エルサレムに戻る。そして「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(46節)。イコンには、マリアもヨセフも描かれていないので、つまり両親が見つけた光景を描いているという設定である。そして、このイコンを眺めると、中央に大きく描かれる少年イエスを囲む六人の学者が弧をなすように配置されている。そこには後ろの建物の直線的かつ多重的な構図があり、それとの対照のさせ方も手が込んでいる。穿ちすぎかもしれないが、地上の直線的空間の中に、神の空間が円弧的に現れているような印象を受ける。
 いま紹介したようなこの逸話の流れには、いろいろなところにイエスの復活への暗示がある。過越祭という時は、イエスの最後の晩餐と受難の出来事があった時でもあり、イエスのその「時」を連想させる。そして、両親がイエスを見失ったこと、それは、イエス自身の死を暗示する。見つかったのが「三日の後」というのも、イエスの三日目における復活を暗示させてやまない。福音書では、イエスが学者たちと「話を聞いたり質問したりしておられる」と対等な交わりで描くが、このイコンでは既にイエスは主キリストの尊厳と権威を有している(光輪や左手で握る白い巻物が象徴)。すでにイエスがいる空間は復活した主の空間であり、旧約の伝統を引く律法学者たちは、そこでは、むしろキリスト・イエスの権威に畏れ、仰ぎ見るだけの存在になっていると言えるのである。
 そのようなイエスに備わる権威を、この福音書のエピソードでは少年イエスのことばが如実に示している。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」(49節)と両親に対する反語的な問いかけである。神殿を特別に「自分の父の家」と語る、神をご自分の父と告げる一つの重要な箇所である。
 ルカ福音書は、両親が律法に従って、産後の清めの献げ物をしに行く場面も描きつつ、神殿での礼拝の伝統をしっかりと述べる。その中では、幼子イエスがシメオンに迎えられたときの神賛美(ルカ2・29-32)を通して、イエスが救い主であることを明示していた。この場面のイコンもそれと同様である。先立つ旧約の礼拝の伝統を十分に述べた上で、旧約の歴史を凌駕する救い主、父である神の子の到来を語るという救済史的展望を、さらに踏み込んだ情景にしていると言えるかもしれない。極めてロシア風に描かれているが、この神殿や都の光景は、我々神の家族すべてのいる「父の家」のイメージにほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ささげらた子(こ)ヤギ
 ヘンリが成人(せいじん)に近(ちか)づいたころです。お父(とう)さんが静(しず)かに口(くち)を開(ひら)いたのです。「ヘンリ、むかし、父(とう)さんがおまえにプレゼントした子(こ)ヤギのことを覚(おぼ)えているだろう。実(じつ)はな、家(いえ)でやとっていた庭師(にわし)がぬすんで食(た)べてしまったんだよ。彼(かれ)の家(いえ)は大変(たいへん)貧(まず)しく、家族(かぞく)のために食(た)べさせる食(た)べ物(もの)がなかったんだ。その日(ひ)、ワルターはその家族(かぞく)を満(み)たしたのだ。父(とう)さんは知(し)っていたが、おまえはまだ幼(おさな)かったのでだまっていたんだ。ゆるしてくれ」(ルビ付き)

場﨑 洋 著『イエスさまのまなざし――福音がてらす子どもたちのあゆみ』本文より

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