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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年1月2日  主の公現  (白)  
わたしたちは東方から王を拝みに来た(福音朗読主題句 マタイ2・2より)

東方三博士の礼拝
ヴィンツェンツォ・フォッパ画 テンペラ板絵 
ロンドン・ナショナル・ギャラリー 16世紀初頭

 ヴィンツェンツォ・フォッパ(生没年1427-1516)というイタリアの画家の作品。ブレーシアに生まれ、ゴシック美術の様式で修業を受け、やがて空間の奥行きなどを忠実に描こうとする画風を追求していったといわれる。パヴィアに移住し、1460年以降、ミラノ公や銀行家の注文を受けて創作し、やがて1470~80年代は、大規模な祭壇画の制作で知られる。1490年以降は故郷ブレーシアで弟子の指導と創作に終生励んだ。この「東方三博士の礼拝」は、その最晩年の作品の一つである(『小学館 世界美術大事典』を参考)。
 主の公現の祭日は、東方の占星術の学者たちが幼子を礼拝した出来事を記念する。そこに、すべての人を救う神の子の栄光の現れがあるという意味で「現れ」(ギリシア語でエピファネイア、ラテン語でエピファニア。日本語はすべての人のための現れという意味で「公現」と訳される)の祝いとなる。礼拝に来た学者たちは、三つの贈り物にちなんで3人、さらに学者ではなく王と考えられるようになる。第一朗読のイザヤ書の言葉「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ60・3)は、預言においては未来における救いへの待望ないし確約の言葉であったが、今や救い主イエスをあかしする言葉となっている。これが、学者たちの礼拝の旅路を王たちの行動として味わう一つのもとともなったのだろう。学者たちがいつしか異邦人の王たちと考えられるようになり、また三つの贈り物(黄金・乳香・没薬)の数から彼らは3人と考えられるようになる。そのため、キリスト教美術では「三王礼拝」が一般的な画題となる。この画の場合も、礼拝する3人が数多くの従者を連れていること、そして、一番前でひざまずいている人物を別として、後ろで贈り物をもっている二人は豪華な冠をかぶっているところに伝統的な「三王礼拝」の図としての特色が見られる。
 中世の写本画、ステンドグラスでの描法の伝統から近代的な遠近法や自然、都市景観描写に移行しつつあることを示す興味深い作例ともいえる。伝統的な降誕図に定型要素であった牛とロバの描写も、マリアの背後に残されていることがその一つのしるしである。マリアとイエスを見ると、伝統絵画のように特に光輪で尊厳が加味されているわけではなく、マリア自身は、非常に庶民的な身なりともいえる。ひざの上に抱きかかえられるイエスもだんだん幼子としての写実表現に近づいている。もちろん、白い衣を身にまとい、抱きかかえられながらも背を伸ばし、王たちに真っ直ぐ手を向け、威厳のある祝福のしぐさになっている。王たちの礼拝を迎え入れられる王子のような姿が可愛らしくもある。
 建物や自然、背景の山、城といった描写は、15~16世紀のものなのであろう。このように、この時期からは、まったく作者の時代の環境の中に引き寄せながら、キリストの出来事を描いていくのである。三人の王の動きもそれぞれに異なり、全体として流れができていくような、映画のシーンのようなしなやかさを感じさせる。少し、目を留めてみるだけで、しばらく見入ってしまうのではないだろうか。
 もちろん、マタイ福音書が述べる、学者たちが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」(マタイ2・11)とは設定が違う。この画の中では、マリアとイエスは、家にいながらもこの場自体が外に開かれている。これは、幼子イエスにおいて神の栄光の万人に向かって現れたという、この出来事の意味を空間化し、図像化したとものといえるだろう。きょうの聖書朗読箇所は、第1朗読箇所(イザヤ書60・1-6)、答唱詩編(詩編72・2+4,7+8,10+11,12+13)と、福音朗読箇所(マタイ2・1-12)が神への「贈り物」ということで結ばれている。神の救いの実現を知った喜びと、まことの神への礼拝の心がこの贈り物に凝縮される。「黄金、乳香、没薬」(マタイ2・11)という具体的な品に関しては、教父たちによって、乳香は神への献げ物に使われることからキリストの神性に、没薬は埋葬に使われたことからキリストの死すなわちその人間性に、そして黄金は王への贈り物として王としてのキリストに関連づけられてきた歴史もある。いずれにしても、救いの実現に対する旧約の約束と新約におけるその成就がぴたりと符合している。そこに、まさに第2朗読でいわれる神の「秘められた計画」(エフェソ3・3b)の啓示がある。
 ちなみに、福音朗読箇所マタイ2章1-12節の叙述全体の展望は実に広い。その柱は、預言どおりメシア(救い主)がベツレヘムで生まれたということにあり、同時にユダヤ王ヘロデの不安に言及し、それが学者たちの旅路と絡んでいくことも述べられる。そのことは朗読箇所の後の聖家族のエジプトへの避難(13-15節)、ヘロデ王の子供たちの虐殺(16-18節)の伏線となり、それらはまたイエスの生涯を襲う受難の暗示でもある。そうした不安の影の中で実現された幼子との出会いは、復活者キリストとの出会いを予告するものでもあるのではないだろうか。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

主の公現
 星が大事な役割りを果たす英雄誕生物語が新約時代に多く見られるのは事実だが、きょうの福音に現れる星は英雄物語での星とは別のねらいを担っている。それは旧約聖書から受け継いだ星の役割である。民数記24章17節に「ヤコブの星」という表現があるが、そこでの星は明らかにメシアを指している。きょうの福音の星もこの「ヤコブの星」との関連で解釈されるべきである。

雨宮 慧 著『主日の福音――C年』「主の公言」本文より

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