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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年3月6日  四旬節第1主日 C年 (紫)  
イエスは……四十日間、悪魔から誘惑を受けられた (ルカ4・1-2より)

悪魔の誘惑(主の洗礼、カナの婚礼、神殿奉献の場面とともに)
スペイン 
アビラの聖書挿絵 13世紀

 この聖書写本画には、複数の場面が組み合わされている。上段には、左に主の洗礼の場面、右には、今年(C年)の年間第2主日で読まれたカナの婚礼の場面、中段左には、幼子イエスの奉献の場面、そして右から下段にかけては、悪魔の誘惑の三つの場面である。
 この誘惑の場面は、きょう(C年)の福音朗読箇所ルカ4章1-13節に登場する三つの誘惑と同じ順と思われる。すなわち、中段右が「神の子ならこの石にパンになるように命じたらどうだ」(ルカ4・3)の誘惑、下段左が「この国の一切の権力と繁栄とを与えよう」(4・6)の誘惑、そして、右が「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)の誘惑である。ちなみに、マルコ福音書にも荒れ野で誘惑を受けたという叙述はあるが、その内容については述べられない(マルコ1・12-13参照)。マタイ福音書4章1-11節ではルカと同様、三つの誘惑の内容が語られるが、第二の誘惑と第三の誘惑の順が逆である。この挿絵の順は、ルカと同様であるが、絵画的描写にはマタイ的要素も含まれている。第一の誘惑の場面には、石らしきものが複数描かれており、第二の誘惑の場面では、マタイで言及される「高い山に連れて行き」(マタイ4・8)を暗示させる緑の山が描かれている。ここでは「この国々の一切の権力と繁栄」(ルカ4・6)が、悪魔のまとう、きらびやかな服装で表現されている。そして、下段右の第三の誘惑の場面では、エルサレムの神殿の屋根が簡略化されて描かれるとともに、悪魔の言葉の中にある「天使たち」が既にイエスの周りで守っているように描かれている。いずれにしても、両福音書の箇所とよく対話しながら描かれていることがわかる。
 きょうのルカ福音書の叙述を通しても、悪魔とイエスの三回にわたる問答は、緊迫感に満ちており、ドラマティックでさえある。そのような雰囲気が、この挿絵でも、悪魔のいる場所、姿勢、イエスの立ち位置とその姿勢の変化によって表現されている。これほど“動き”を感じさせる絵も珍しい。なるほど、誘惑はどこからでもやってくるのであろう。
 それに対応するイエスの答え方の特徴がまた重要である。ルカ福音書の本文の中で、「書いてある」あるいは「言われている」という仕方で申命記を典拠として答えていくのである(ルカ4・4では申命記8・3、ルカ4・8では申命記6・13と10・20 、ルカ4・12では申命記6・16)。このようにして、神の掟、神の意志の客観性、絶対性が強調されている。イエスが御父として示される神の計画、神の意志を背景にしての、悪魔の誘惑に対する拒絶の宣言である。この挿絵に含まれている合計6つの場面を通して、神の栄光を現す御子の姿が大変、動的に展開されている。このように福音書の中のイエスは見られていくべきものだ、という視点での作画の意図がよく伝わってこよう。
 さて、ここでのイエスの教えをつなげると、人はパンだけで生きるものではないこと、ここで暗示されているのは、申命記8・3の続きの部分の「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということである。次に、あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えること、そして、あなたの神である主を試してはならない、ということである。この教えの主導線を明確に浮かび上がらせるために、きょうの第1朗読箇所の申命記26章4-10節がある。末尾で「あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し〔なさい〕」(10節)とのモーセの呼びかけがあるところである。朗読箇所の主要部分は、イスラエルの民の主に対する信仰告白である。また、第2朗読箇所ローマ書10章8-13節は、信仰宣言を主題とする。「イエスは主である」(ローマ10・9)という宣言と、神(御父)がイエスを死者の中から復活させられたことを信じる信仰との一致を呼びかける。主を信じ、主の名を呼び求める者に約束される救いを強調している箇所である。
 全体を通して、他のなにものでもなく、キリストの死と復活において、自身の姿、御心、救いの計画のすべてを完全に現された神に対するまことの信仰宣言が求められていることが明らかである。福音書が示す悪魔とイエスとの対決は、とりわけ入信を志して準備している人たち、回心の時として四旬節を過ごす信者たちの心の中での糾明を促しつつ、そこに導きを与えてくれるものであろう。ここでの対決は、たとえ話のようなものではなく、イエスの受けた試みとして、第三者的に想像するだけでよいものではなく、現代の我々の置かれている状況に引き寄せて、受けとめていく必要がある。もちろん、そのような自身における信仰の観点からの反省自体、神のことばによって先導されることによってこそ実現されるのであろう。まずは、神のことばに耳を傾けることである。そこからおのずと、どう応えるかについての照らしがもたらされるにちがいない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

政教分離の位置づけ
 
さらに、社会全体の共通善を求めるにあたって、諸宗教が果たすべき役割も重要である。いわゆる「相互不干渉の寛容」という美名のもとに宗教を私的生活の領域に閉じこめてはならない。むしろ、ガンジー、キング牧師、南アフリカのデズモンド・ツツ主教、エルサルバドルのロメロ大司教たちのように、信仰に支えられた人々は、人権尊重のために多大な功績を残したことが認められるであろう。彼(女)らは決して排他的でもなかったし、宗教の側からの余計な干渉を勧めたわけでもないけれども、そうかといって社会正義に対して無関心でもなかったのである。

ホアン・マシア 著『暴力と宗教』「第9章 政教分離の誤解」本文より

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