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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年3月20日  四旬節第3主日 C年 (紫)  
神は、柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた(出エジプト3・4より)

律法を授けられるモーセ
『レオの聖書』
ローマ バチカン美術館  10世紀

 モーセが主なる神から律法を授けられる場面を掲載する。きょうの第1朗読箇所(出エジプト3・1-8a、13-15)は、燃える柴の中で主が現れ、モーセに自らの名を啓示し、モーセを派遣する場面であるが、その派遣の中心にある律法授与の場面を描く挿絵とともに考えたい。
 この『レオの聖書』の挿絵は、10世紀前半の作で、マケドニア朝ビザンティン帝国における代表的な美術作品の一つといわれる。同時代の西方の写本画と比べると表現方法はかなり異なり、人物像もリアルで、岩山の描き方も立体感に富んでいる。モーセは短髪で髭もない、全くの青年として描かれている。律法を受け取るときの神の右の手は、神の介入を象徴的に表す初期キリスト教美術の伝統的表現法である。神は見ることができず、像で描くことはできないという考えから、天から差し出された右手でもって神自身とその働きを表現するのである。興味深いことに、(向かって)左端には、時間的には先立つ出来事、すなわち岩山に昇っていく前に履物を脱ぐ場面(出エジプト3 ・5 「足から履物を脱ぎなさい」に対応)が描かれている。そして、中央に描かれるモーセの、裸足で駆け上がり、精一杯両手を上に差し出して律法の書を受け取ろうとする姿勢がダイナミックである。
 この画面上部の図と、その様子を見上げる民を描く上部の図を合わせて眺めていると、イエスの昇天の図が思い起こされてくる。モーセは人間の中から神に引き上げられて、神の律法授与を仲介するという意味で、神とその民を結ぶ人物であった。イエスは神の側から人間の中に来られた方であり、地上の生涯、死と復活を経て再び神のもとに昇る方として、神と人類を結びつける使命を果たした方である。モーセの使命の核心を描き出しているこの絵を通して我々はやはりイエス・キリストの姿を思い見ることができよう。
 朗読箇所の特徴に目を向けてみよう。ここでは、神とモーセとの間の対話が面白い。「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」( 3・ 6)のであるが、見ることではなく、ことばを通して、神自身について、そしてモーセに与える使命について本質的なことが明らかにされる。モーセに対する神のことばの中で重要なのは、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3 ・6 )と、自らが創世記で語られたイスラエルの父祖たち、族長たちを導いた神であるとの宣言である。こうして神に導かれる民の歩みの次の段階として、エジプト人の手からの救出と、乳と密の流れる土地への導き上りが約束される。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3・14)という自らの名の説き明かしがある。この名については、さまざまに論じられてきているが、抽象的に自らの存在を語っているというより、地上世界を旅する神の民の歩みを現実的に導く方であるということを自ら告げているのだという理解が文脈にもかなっている。そのしるしとしてモーセの近くに現れ、モーセを呼び、エジプト脱出を導く者として派遣しているのである。
 いずれにしても、燃える柴の中で「モーセよ、モーセよ」と言われて、モーセが「はい」と答えること(3 ・4参照)から、神の民の歴史が新しく始まるといえる。また、神が与える律法(神の教え、神のことば)を全身と真心で受けとろうとするモーセの姿勢と、民とともにあって導かれる存在であることの神自身のあかしをもって、いよいよ、現実世界の中を歩む神の民が形作られていくことになる。このような神とモーセの出会いと対話は、四旬節を過ごす我々にとって、信仰生活を新たに築いていくことへの力強い呼びかけである。
 第2朗読箇所の一コリント書10章 1- 6、10-12節では、モーセに率いられてエジプトから脱出した民のその後の歩みが思い起こされる(出エジプト13・17-22、14~15章参照)。マナという食べ物を恵まれたこと(出エジプト16章参照)、またホレブの岩からほとばしる水で渇きをいやされたこと(出エジプト17・ 1- 7参照)を指して「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(一コリント10・ 3 )とパウロは語り、これらがキリストを前もって示すしるしであったことを告げる。旧約の出来事は、我々の信仰生活を振り返るため、回心するための「前例」(10・6,11)でもある。福音朗読箇所(ルカ13・1-9 )における、イエスの「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・3、5 )という回心への呼びかけも、前後を見ると、個人の私生活の人生の範囲にとどまらず、民の歴史、人類の歴史にまで及ぶ回心のための戒めのようである。
 悔い改めなければ、滅びるという戒めの底には、徹底した回心があれば、まことのいのちに至るという積極的な招きが含まれていることも見なくてはならない。それこそがキリスト自身が呼び招いている道である。現代の世界のあり様を見つつ、いのちの根底にあるものに目を向け、表紙絵のモーセの姿のように、神の教えにすがり、こたえていく道を祈り求めてゆきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

気をつけてまわりを見まわす
 いま、世界(せかい)の地図(ちず)を見(み)ると、この地上(ちじょう)で災害(さいがい)や争(あらそ)いがない地域(ちいき)をさがすことがむずかしくなっていることがわかります。イエスさまがふたたびおいでになって、このありさまをごらんになったら、とても悲(かな)しまれるにちがいありません。イエスさま、神(かみ)さまを悲(かな)しませてはなりません。争(あらそ)いや自分勝手(じぶんかって)ばかり言(い)っているいまの世(よ)の中(なか)を、神(かみ)さまがほうっておくことはありません。……イエスさま、自分勝手ではなく、「気(き)をつけて」まわりを見(み)わたして歩(あゆ)んでいくことができるよう、勇気(ゆうき)をおあたえください。

江部純一 著『神さまの風にのって――子どものための福音解説』「21 気をつけてまわりを見まわす」本文より

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