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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年4月24日  復活節第2主日(神のいつくしみの主日) C年 (白)  
あなたがたに平和があるように (ヨハネ20・19,26より)

復活したイエスと弟子たち
オットー三世朗読福音書 
ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末

 復活節第2主日の福音朗読は毎年このヨハネ20章19-31節である。この箇所は二重のエピソードが組み合わされている。イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ったこと(ヨハネ20・19-23)、八日後にも同じことが言及される(20・26)、それからトマスに関する言及(20・24-25、27-29)である。イエスとトマスの間の出来事が、一般に「トマスの疑い」という画題で頻繁に教会の東西を通じてよく描かれる。しかし、弟子たちの真ん中に復活したイエスが現れた出来事も同じように重要である。それが、週の初めの日(すなわち日曜日、主日)であることの意味合いが大きく、教会にとって、主日のミサの源とその意味を深く考えさせるものとなる。
そのような受けとめ方を許すのが、きょうの表紙絵の挿絵である。一つの場面に、均等に二つの出来事を描いているからである。きょうの福音朗読全体を味わわせてくれる。
 まず(向かって)左側の弟子たちの間にイエスが現れた場面である。イエスの左右両側に弟子が5人ずつ描かれる。これに右側のエピソードの主人公を合わせれば、11人となり、イスカリオテのユダが抜けたあとの11人の弟子(使徒言行録1・13参照)とも数の上では合うのだが、絵にはもう一つ別な動機も含まれている。イエスの(向かって)左側の5人の先頭にはペトロがいる。白髪・白髭の男である。左手に何かを抱えており、はっきりはわからないのだが、これは鍵であると考えたい。ペトロを象徴する表象だからである(マタイ16・19参照)。興味深いのはイエスの(向かって)右側の5人の筆頭にいる弟子である。禿げ頭の男は、一般にはパウロの描き方にあたる。左手に白い巻物をもっているところに、異邦人への宣教者として、たくさんの手紙を残した使徒パウロの象徴を見ることもできる。しかし、一方では、福音書がイエスの復活直後のことを描く場面に、この段階でパウロへの言及はない。使徒言行録が伝えるように、もっとあとに、独自に復活したイエスと出会い、回心を遂げる人だからである(使徒言行録9・1-19参照)。しかし、もし、これがパウロだとすると、ペトロとパウロに象徴される、ローマ・カトリック教会的な展望での教会の象徴をこの弟子たちの描写をもって示していることになる。
 復活したキリストの現れのこの場面は、そのような奥行きをもって受けとめてみたい。まさに、ヨハネ20章19-23節の内容は、キリストと教会の関係の根源にあるものを示している。イエスは弟子たちに「平和があるように」と告げ、派遣する。そして、聖霊を与える、それは、罪をゆるす力にほかならない。これこそ、教会の使命を明確に告げ、それを実現しているのである。ここに、教会の始まりが刻印されている。しかも、それは、週の初めの日(ここでは夕方だが)の出来事であり、八日後ごとにつまり毎週の週の初めの日、すなわち後に「主日」と呼ばれるようになる日に繰り返される。いってみれば、新約の神の民である我々が、我々が主日のミサでともに体験している主の現存、主の平和、主のゆるしの力の根源がこのヨハネの箇所に明示されているといえるのである。
 画面右側のトマスとイエスのやりとりも少しだけ検証してみよう。ヨハネ福音書では、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20・25)と、手の釘の跡とわき腹を問題としている。しかし、絵はたいていわき腹の傷跡のみに焦点をあてる。そこに向かってトマスがただ覗きこむだけのような描き方もあれば、手を伸ばしているだけの描き方もある。トマスが右手の人差し指を伸ばしながら、わき腹を覗こうとしている。これは、イエスのことば「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(同20・27)に対応している。ただし本文では、実際にトマスがそうしたかどうかについては言及されていない。トマスの対応の中で言及されているのは、イエスのことばに答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言ったということだけである。
 また、最後のイエスのことばが微妙である。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(同20・29)とある。トマスは見たから信じた者なのか、見ないで信仰告白した者なのかがはっきりしない。とはいえ素直に読むと、このエピソードは、トマスの信仰告白がメインになっている。トマスの疑いや不信どころかトマスの信仰が立派なテーマである。初めは疑ったかのような人が、信仰告白へと導かれていくこの出来事は、そのまま使徒以後の時代のすべての人の信仰のプロセスの先駆けのようである。「見ないのに信じる者は、幸いである」(同20・29)というイエスのことばは、使徒に続く弟子たちすべて、そして、現代の我々にまで至るすべての人への信仰の招きであり、それ自体福音である。
 ついでながら、もう一つのこの絵の興味深い点を記しておこう。画面(向かって)左の弟子たちの真ん中のイエスはその足がペトロの足の上にあるように、全体として少し高い位置に浮かんでいるように描かれている。それは、画面(向かって)右側のトマスの位置と比べてもそうである。この少しの高みというのが、すでに天の次元におられる主の位置を大変控えめながらに表現していると考えるほかはない。作者の眼差しや表現上の工夫の濃やかさが面白く、味わい深い。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

闇から光へ
 マタイ福音書を見ますと、一つの奇妙な記事に出会います。神殿側の一団が総督のところに行って、次のようなことを言っているのです。
 閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれません(マタイ27・63-64)。
 そこで、総督は墓を封印させ、番兵をつけたというのです(マタイ27・65-66参照)。イエスを殺害した側の人たちが「三日後に復活する」と言われたイエスの言葉を思い出し、弟子たちがこの言葉を忘れてしまっていたと考えられます。神殿側の人たちにしても、それを信じていたわけではなく、たあいのない話ぐらいにしか考えてはいなかったでしょう。

オリエンス宗教研究所 編『はじめて出会うキリスト教』「第8講 主はよみがえられた」本文より

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