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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年5月1日  復活節第3主日 C年 (白)  
イエスは、ティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された(ヨハネ21・1より)

不思議な大漁
ドゥッチオ マエスタ(背面の図)
イタリア シエナ大聖堂博物館 14世紀初め

 きょうの福音朗読箇所はヨハネ21・ 1-19節。表紙絵は、そのうち21章1-8節に記される、いわゆる「不思議な大漁」と呼ばれる場面を描くものである。漁に出ている弟子たちに対して、復活したイエスが現れ、岸に立って「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)と言う。すると網を引き上げることのできないほどの魚がとれた……という場面である。この絵では、岸に立つイエスと弟子たちのうちで二人の弟子が網引いているという点で、話との対応は明確である。それに対して、弟子たちの先頭にいてイエスに向かって、しかも水の上に立っているペトロ(白髪と白髭が特徴)の描写はどこから来るのだろうか。
 このエピソードの初めにペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」というというくだりがある(3節)。ペトロが、漁師であるこの一団のリーダーであることがよく示される。そしてまた網でとりきれないほどの魚がかかったというくだりのあと、「イエスの愛しておられたあの弟子」(ヨハネ)がペトロに「主だ」と言うと、ペトロはそれを聞いて、裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込んだ(7節参照)というように続く。復活した主イエスであることがわかって飛び込むという行為は、信仰告白行為というべきものなのであろう。
 実はこの復活したイエスの現れによる不思議な大漁の話は、ルカ5章1-11節の述べられるペトロらの召命のエピソードの中にもある(今年=C年の年間第5主日の福音朗読箇所)。また、ペトロが水の上に立っているというこの絵の描写、マタイ14章22-33節のエピソードを思い起こさせる部分もある。これら全体がイエスによる召命に関する伝承群としてまとめて味わうのがふさわしいのであろう。
 さて、ヨハネ福音書21章に戻ると、このあと、弟子たちが陸に上がると炭火が起こしてあり、魚がのせてあり、パンもあったこと(9節参照)。そのあと、魚とパンによる朝の食事をイエスと一緒にとったことが述べられる(12-13節参照)。さらに15節から19節(きょうの長い福音朗読の後半)は、イエスとペトロの問答である。イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度尋ね、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と信者の司牧の使命を三度告げ、三度命じ、最後にペトロがどのような死に方をするかを示し「わたしに従いなさい」(19節)と言う。表紙絵で、イエスとペトロが向かい合う姿で描かれることには、こうしたヨハネ福音書の描き方を踏まえていると思われる。
 この岸辺に現れた方が復活したイエスであること、「主」であることを知るというところに、福音書のこの箇所の中心主題があることを考えると、ペトロの手は、この方がだれなのか問いかけ、また「主」であることを確かめるようなしぐさをしているように思われる。イエスはそれに対して親しく答えているようである。この二人の手のしぐさは、後半(15-19 節)のやりとりをも含んでいるものとして味わってもよいのではないだろうか。
 ヨハネ21章1-19節には、キリストに関する啓示、イエスと弟子たちとの関係の諸相が示されている。それは、主であるイエスと我々の関係の仕方に対する暗示にも非常に富んでいる。弟子たちが生業である漁業のために湖に出ているところ、イエスは岸辺に姿を現す。この「岸辺」という場所は、いわば弟子たちの地上の生存の場とは異なる次元でもある。姿を現した方が「主だ」とわかると、いわばペトロはこの生存の場(湖)にはいられなくなる。絵の中で湖面に立っているかのようなペトロは、いわばイエスの存在に引き寄せられて、そこに立っている者として描かれているのである。すでに、これは、信仰の空間での出会いである。そして、弟子たちが陸に上がってくると、そこでは、大漁の魚とパンによる朝の食事が始まる。たくさんの不思議な産物としての魚とパンによる食事は、もはや単なる地上というだけではない、キリストがともにおられる新しい食事である。これが、感謝の祭儀、ミサの意味にもつながってくることは、当然に、考えてよいだろう。
 復活したイエスの現れのエピソードは食事と関連づけられることが多い。マルコ福音書では「十一人が食事をしているとき」に現れる(マルコ16・14)、ルカ福音書ではエマオでの弟子たちの食事が有名である(ルカ24・30-32)。またルカ24章には弟子たちの前で魚を食べたという場面もある(42-43節)。我々がともにささげている感謝の祭儀(ミサ)はもちろんその制定は、最後の晩餐にあるが、交わりの儀(聖体拝領)が示すのは、復活したキリストのいのちとの交わりにほかならない。復活して現れたイエスと、ここに生まれつつある弟子たちの共同体との交わりは今も主とともに生きる教会のいのちの始まりなのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 イエスの関心は最初から、弟子たちに食べる物を差し出すことにある。大漁の奇跡が起こされたのも、弟子の食べる食物はイエスによって与えられ配られることを知らせるためである。しかし、注意したいのはこの食べ物が与えられる弟子たちが2節で合計七名、挙げられていることである。このリストは、他の顕現物語のどれにも見られないほどにきちんとしており、あるまとまり、つまり地上の弟子たちのサークルを意識していると言える。ヨハネがこのリストを述べる真のねらいは、イエスの生前、すでに出来上がっていたサークルがイエスの死後もよみがえった方の臨在によって消え失せずに保たれていると示すことにある。

雨宮 慧 著『主日の福音 C年』「復活節第三主日」本文より

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