2022年6月12日 三位一体の主日 C年 (白) |
大地に先立って、知恵は生み出されていた (第一朗読主題句 箴言8・23-24より) イタリア ペルージア アウグスタ図書館 1150年 『聖書と典礼』の表紙絵では、朗読される箇所の場面を直接描くものを選択して示すことを基本としているが、福音朗読の内容がたとえば、きょうの福音朗読箇所(ヨハネ16・12-15)のように、イエスのことばによる教えだけのときには、場面として提示する作品にめぐり合えないことも多い。使徒パウロの手紙も同様である。そのような場合、第1朗読箇所をヒントにしてみたいと思うことも多い。ところが、きょうの第一朗読箇所箴言8章22-31節もやはりすべてが「神の知恵」が先立って生み出されていたことが語られる。こうした内容を踏まえ、今回は、一工夫をし、少し発想を飛ばして、創造主である神のことが意外な場面で言及されていることを教えてくれる絵を観賞する。 表紙絵は、聖ステファヌスへの投石と題されるものである。その殉教の折に、御父である神と、御子イエスを仰ぎ、自らの霊を神に返すという場面である。絵の右上は、御父である神が栄光を示す濃淡の円弧から右手を突き出しているところで、これがなによりも天地を超えつつ、天地を造った神を表すものである。ステファノは、使徒言行録6章、7章の主役である。使徒たちの宣教が発展し、弟子の数が増えてきたところで、12人の使徒のほかに「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」(6・3)が選ばれることになった。こうして「祈りと御言葉の奉仕に専念する」(6・4)するためにステファノをはじめとする7人が選ばれる。ステファノはとくに「信仰と聖霊に満ちている人」(6・5)と特徴づけられている。彼は「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6・8)。「知恵と“霊”とによって語る」(6・10)ステファノには、だれも歯が立たず、これら論敵によって長老・律法学者などユダヤ人の指導者たちも扇動され、ステファノは陥れられることになる。彼は、襲われ、逮捕され、最高法院に連行される(6・11-12参照)。 その最高法院でのステファノの弁明(説教)が次の7章の主要部分である。ステファノは、族長の時代、モーセによるエジプト脱出の出来事、荒れ野の旅、ダビデの時代のことを想起させつつ、天地の創造主である神のことを想い起こさせる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか」(7・49-50)。イザヤ66章1-2節の引用にあたることばである。その上で、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」(7・51)と言って、預言者たちがその到来を告げていた「正しい方」(7・52)キリストをユダヤ人が裏切り、殺したことを直言する。「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」(7・52 )。これを聞いて、人々は激しく怒り、ステファノに襲いかかり、石を投げ、結局、彼は殉教する(7・54-60参照)こととなる。 表紙絵は、この殉教の場面でのステファノの態度を描き出している。ステファノは「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」(7・55-56)のである。そして最後に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで、眠りにつく(7・59-60参照)。 最初の殉教者とも呼ばれるステファノの最期の態度は、迫害して処刑される殉教者の一つの典型となっていく。そして、この殉教の叙述を通して、我々としては三位一体の神がステファノを通してあかしされているのを目の当たりする。彼は“霊”と知恵に満ちた人であった。この“霊”は、きょうの福音朗読箇所ヨハネ16章12-15節で、イエスが到来を約束した「真理の霊」にほかならない。また、それは、第2朗読箇所ローマ5章1-5 節で、パウロが語る聖霊、すなわち、キリスト者は聖霊によって、神の愛が注がれているというときの聖霊であるに違いない。苦難の中でも希望に生き続け、人々をゆるす心をもって殉教したステファノに通じるパウロの教えである。 ステファノについては絶えず「知恵」が語られている。第1 朗読箇所箴言8章22-31 節で語られる「神の知恵」はいわば御子キリストの予型である。万物に先立って生み出されていた神の御子を暗示する。神の知恵である御子を信じ、あかしする者は、この神の知恵にもあずかっている。キリストの証人となる人々はその知恵に満たされており、神の右におられる御子キリストをたえず仰ぎ、キリストをあかしし続ける者となる。殉教者ステファノの死は、自らの霊を御子イエスと御父に返すものであった。 きょうの三つの聖書朗読箇所を味わおうとするとき、何か三位一体の神に対する抽象的な教えを引き出すことよりも、それがキリスト者の生き方、死に方に切実に関係しているということを受けとめなくはならないだろう。ステファノの宣教と殉教の次第は、そのことを鮮やかに示している。 |