私が神学生だった時、病気で2ヶ月ほど入院していたことがあります。その時の主治医は、朝夕2回必ず病床に様子を見に来てくれました。 「昨日はよく眠れましたか。今日の体調はどうですか」 いつも笑顔でそう尋ねてくれました。私は初めての入院生活だったので、それが普通のことだと思っていましたが、医師なら誰でもそうしているわけではなく、特別なことだったと後になって気付きました。その医師も、忙しい日や疲れている日がきっとあったと思います。それでも必ず笑顔で来てくれることに、私は患者としてとても助けられました。 その医師はキリスト信者ではなかったかもしれません。しかし、病に苦しむ人のために働くことを、日々の仕事の中で実践していたわけです。それはすべての人の救いのために今も働いておられる、キリストの御心にかなう立派なことだと思います。今でもその時のことを思い出すと、「私の働きは、まだまだあの先生にかなわないな」と反省させられます。 殉教者の伝記を読んでいると、日々の生活から自分を捧げて生きていた姿に驚かされます。特に日本のキリシタンは、司祭・修道者の数が少ない状況で、信徒として教会の活動を支えてきた歴史があります。彼らは殉教の瞬間だけ命を捧げたのではなく、毎日の身近な生活や仕事の中から、自分を捧げてキリストの後に従っていたのです。 「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24) このキリストの言葉を聞いても、迫害の時代ではない現代では、あまり実感が湧かないかもしれません。しかし、日々の生活から私たちの人生を捧げていくことは、現代でもできると思います。「命」は英語では life、ラテン語なら vita ですが、それは同時に「人生」を意味します。「命を捧げてキリストの後に従う」という生き方は、私たちの人生の日々の生活から、実践していくことができるのだと思います。 (『聖書と典礼2020年08月30日より』) 『聖書と典礼』年間第22主日 A年(2020年08月30日)表紙絵解説 大塚了平 著『わたしたちのはつせいたい──イエスさまとつながろう!』 |