2020年8月30日 年間第22主日 A年(緑) |
多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する(マタイ16・21より) 十字架への道を行くイエス モザイク ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀 イエスの受難予告が始まる。先週の福音朗読箇所マタイ16章13-20節の中で、ペトロの信仰告白があった。それに対して、「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(20節)のであった。それにすぐ続くのがきょうの朗読箇所マタイ16章21-27節である。ペトロの信仰告白が一つの境目となって、メシアであるイエスは、これから受難の道を明確に歩み始める。表紙作品は、そのイエスの受難の道を先取りして、十字架の道行きの途上を描くモザイクである。 ペトロの信仰告白に続いて受難予告が始まるというのは、マタイ、マルコ、ルカ共通の流れである。さらに、受難予告に続いて、イエスの変容の出来事が述べられる(マタイ17・1-13)のも三福音書共通である(ペトロの信仰告白=マルコ8・27-30; ルカ9・18-21; 最初の受難予告=マルコ8・31~9・1 ;ルカ9・22-27; 変容=マルコ9・2-13;ルカ9・28-36)。 ちなみに、マルコによるペトロの信仰告白と最初の受難予告は一続きになって、B年の年間第24主日の朗読箇所(マルコ8・27-35)、ルカの場合も両者が一つ続きでC年の年間第12主日の朗読箇所(ルカ9・18-24)になっている。その意味で、ペトロの信仰告白と受難予告の内容をそれぞれ別個にじっくり味わえるのがA年の年間第21主日と第22主日の展開である。 その受難予告のことばに続いて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)以下の、我々キリスト者にとってきわめて重要となる明確な呼びかけがなされる。十字架がキリスト者の生き方にとって、決定的なものとなるために、イエス自身の十字架と並んで、このことばが大きな力をもったことだろう。このメッセージ以来、イエスの十字架はただイエスにとって意味あるものではなく、我々一人ひとりの生き方の象徴となっていくのである。 ただ、マタイの叙述の展開に素直に従うと、この段階では「十字架」ということばはまだ謎だったのではないか。受難の予告の中で「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21節)と言われても、その死が十字架刑であることははっきりとは語られていない。三番目の受難予告(マタイ20・17-19)でようやく十字架が言及される)。したがって最初から十字架のことは自明のこととして前提にされていたのかもしれないが、だとしても、「自分の十字架を背負って」イエスに従うという意味は、弟子たちには完全には明らかでなかったといえるかもしれない。 ペトロが告白したように、弟子たちもイエスが約束されたメシア(救い主)であることを悟り始めていたかもしれないが、すべてが明らかになるのは、イエスの十字架上での死においてであり、復活したイエスとの出会いの体験においてであった。イエスの死と復活に至って、生前のイエスのことばと行いのすべての意味がはっきりと照らし出されたのであろう。それ以来、イエスの背負った十字架は、我々一人ひとりの担う、人生や歴史における十字架の象徴となっていく。 モザイクの中のイエスは、高貴な衣装と大きな光輪により救い主、主として栄光と尊厳に満ちている。復活し、天の座に着いた主をすでに描き込んでいるといえる。そばで青年が十字架を担っているのは、マタイでいえば27章32節で言及される「シモンという名前のキレネ人に……十字架を無理に担がせた」に基づく(マルコ15・21、ルカ23・26参照)。ただ、このモザイクでは、光輝ある主の行く手をあたかも先導する侍者のように見える。後に従う人の中にはユダヤ教の大祭司とおぼしき人物も見える。その表情や眼差しは、一心にこの男(イエス)はだれなのかという自問に満ちている。 十字架の道行といってもよいイエスの歩みの背景は、輝ける黄金色で埋めつくされている。神の栄光の顕現として、受難の歩みを見ていることは明らかである。それは、栄光への道行であり、降臨に図案化されている十字架も、青年のもつ十字架も、イエス・キリストの神秘を照らし出す一つの暗示的要素と化している。このような描き方を参考にするなら、我々に呼びかけられる“十字架を背負ってイエスに従うこと”は、決して、苦しみの中にあえて身を投ずるような暗い決断なのではなく、神のいのちの輝きのままに、それを精一杯受けとめて生きていく、その喜びへの招きにほかならないのではないだろうか。 モザイクが描くこの画面に降り注ぐ光を、精一杯吸い込んでみよう。 |