たしかに、落語の沼にはまってしまったのかもしれない。 聞くところによると「沼にはまる」という言葉は、趣味に熱中・没頭してもはや抜け出せなくなってしまった人の状況を指す言い方らしい。いわゆる「沼にはまった人」というのは、時間と金を1つのことに注ぎ込んで浪費している人のことを揶揄(やゆ)する言葉でもある。 落語を聴くにはものすごく時間がかかる。寄席に一度足を踏み入れれば、優に4時間は座って話を聴き続ける。通勤中にイヤホンで一席聴こうと再生を始めると短いものでも30分、連続の長講となると2時間にのぼることもある。もちろん途中で止めてもいいのだが、そうはいかない。話というものは、最初から最後まで聞いてやっとどういう内容かが分かるという基本のキの字を思い知らされる。 わたしがなぜ落語の沼にはまってしまったかというと、落語言語とでも言いたくなる名もなき民衆の特殊な言葉のやりとりに完全に魅了されてしまったからだ。八っつぁん、熊さん、お三津ぁん、横丁のご隠居さん、彼らが小さな長屋で、あぁでもない、こぉでもないと日々のどうしようもない揉め事を生きている。しかし、不思議と人間たちの言葉のやりとり、つまりたわいのない「会話」が、ある時は何かしら解決策を生み、ある時はどうしようもない不条理を走りぬけていく。噺家は1人で数人の会話を演じ分け、人間模様と困難からの脱出策を客に伝える。人間はこんなふうにして生き抜くのだと……。 わたしにとっての落語は、福音の中に描かれる人たちの会話のように生き生きと響いてくるものだ。イエスという名の江戸っ子は登場しないが、どこかにイエスが見え隠れしているように感じている。福音の中でもイエスは何人もの登場人物を演じ分け、まるで噺家(はなしか)のようにいろんな譬(たと)え話で民衆を魅了したに違いない。サマリア人の譬え話、ぶどう園の労働者、イエスという噺家がどんなふうに語っていたか、あぁ、やっぱりわたしは沼にはまっている。 (月刊『福音宣教』2021年11月号 風よ! 炎よ! 私にことばを! 6 ――企画委員によるリレーコラムより) 月刊『福音宣教』2021年11月号目次 |