マリア様の御像が出迎えてくれる中学校へ行かない?――母が唐突に聞いてきたのは、もう40年ほど前のこと。私がまだ小学5、6年の頃だったと思う。知人に誘われ小学3年からプロテスタントの日曜学校に通っていた私は、カトリックとの違いも知らず、マリア像など見たこともなかったけれど、母にそう聞かれてなんとなく行きたいと思った。日本的な意味での仏教徒である両親も、当時の京都で評判の男子進学校「ヴィアトール学園洛星(らくせい)中学校」に息子が入ってくれればこれ幸いと企んだだけであったろう。日本基督教会吉田教会の先生方が、恐らくは複雑な心境で受験を応援してくださっていたことなど知る由もない私は、運良く合格し、晴れて洛星に通うことになった。1983年春のことである。 比叡山のふもとの片田舎で育った私は、洛星に入り、外人さんがたくさんいることにまず驚愕する。聖ヴィアトール修道会カナダ管区から来ておられた神父や修道士である。校長こそ村田源次神父で唯一の日本人であったが、あとはすべてカナダ人、アメリカ人、スペイン人。会議室で毎朝行われる自由参加の「朝の祈り」には、ラバディ神父やブラザーたちも来られ、カトリック聖歌を歌い、主?文や天使祝詞を唱えていた。そのうち、おや、君はピアノが弾けるのかということで、オルガン担当のラトレー神父がお休みのときには伴奏を頼まれるようになり、それが嬉しくて頑張って早起きをするようにもなった。校内放送で朝の祈りへの参加を呼びかける声がラトレー神父だと、少しがっかりしたものである。 学校横の修道院には、すでに教職を引退されたアラール神父もおられ、放課後には卓球道場(なかなかの腕前だった)や、映画鑑賞会、公教要理勉強会、お菓子を食べる会など、硬軟さまざまの企画で生徒を集め、人気を博しておられた。日中には保護者を対象として聖書勉強会なども企画されていたはずである。それが、当時のヴィアトール会のひとつの宣教方法であった。 さて、プロテスタントの日曜学校から洛星にやってきた私は、教室に掲げてある磔刑(たっけい)像に興味をいだき、ある日、校内の購買部に売ってないかと聞きに行った。いま思えば売店のおじさんのその時の対応が素晴らしかった。「ここはペンやパンを売るだけの店、十字架なんぞあるわけない」ではなく、「ここにはないが、会計の部屋に行けば備品の十字架が余っているかも」と。売店のおじさんの、このほんのひと押しの親切が、私の人生を変えた。 会計室ではオーベン修道士が働いておられ、1年生が十字架がほしいとやって来たのに対し、「ここにはないが、修道院に行けば誰かがくれるかも」と。そして放課後、私が勇気を出して修道院のベルを押すと、にっこり笑ってアラール神父が登場、小さな十字架をくださった。これが、私と師との出会いである。 それ以降、卓球も鍛えてもらい(おかげで今でも並の学生には負けない)、天地創造や十戒、ベンハーや、ルルド、ファティマなどの映画を見せてもらい、カトリック要理を勉強することになった。そうやってごく自然に、私はアラール師に導かれていった。きっかけはマリア像。十字架像。そして売店のおじさん。何がどう転ぶか、いまとなっては、ただただ不思議としか言いようがない。 教皇ヨハネ・パウロ2世と対面するフランソワ・アラール神父(1984年7月25日、イタリア、カステル・ガンドルフォの教皇宮殿にて)。日本から来たと紹介されたアラール師が日本語で「神に感謝!」と挨拶したところ、教皇は「日本人の顔をしていないね」とおどけられたという。 (月刊『福音宣教』2022年1月号目次 「京・江戸・博多、そして巴里」より)
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