ジコチュー 何年か前のお正月、テレビで初詣に来ている人にインタビューをしている光景を見ていました。参拝客に「今年の抱負は何ですか?」と尋ねているのです。するとその中で、一人の若い女性がフリップに大きく、こう書いて見せたのでした。 「ジコチュー」 その女性は言うのです。「自分はつい人の顔色を窺ってしか行動ができない。自分の気持ちは引っ込めて、周りに合わせることしかできない。今年こそは、少しだけ勇気を出して、自分の気持ちに忠実になってみよう。少しくらい自己中心的でもいいから」と。 果たして、「自分の気持ちに忠実になること」と「自己中心的であること」が同じものであるのか悩みます。でも、私たちの社会には、みんなが同じように考え、同じように行動することを求めるところがあって、「どこかで息苦しさを感じるのは、たしかにそうだよな」と思うのです。特にコロナ禍が始まってのこの空気感には恐ろしい感情が含まれていたようでもありました。 だからこそ、小さな一人ひとりが、無理に背伸びしなくても大事にされる社会が欲しいと思います。目立たない人たちの普通の生き方が、「ジコチュー!」と気張らなくても見守られている社会。そこに溢れさせるための愛をこそ語りたいと願うのです。 「おととい和解しました」 その方のお部屋を初めてお訪ねした時のことでした。 「こんにちは。初めまして。この病院の牧師です」 いつもそうするように、私はその女性にお声かけしました。するとその方は、まるでそれが自然なことのように、私に「どうぞ」と言って、椅子を勧めてくださったのでした。 これは私にとって、決して当たり前の光景ではありません。むしろ普通は「牧師が来た」と言っても、「あ、そうですか。ま、よろしくお願いします」程度のやり取りで終わるか、それとも、ひと言ふた言何気ない会話から始まり、「元々はお身体は丈夫な方ですか?」のような質問があって、「それだけが取り柄でしたから。私、昔ね……」のような語りが始まったところで、私が「今、話していても大丈夫ですか?」と許可を得て、おもむろに腰掛けるという流れになることが多いのです。 「何かある」と思いました。女性は話し始められました。 「私、おとといね、息子と和解したんですよ。今日が入院だというので、息子が来てくれたんです。もう一〇年くらい行き来のなかった息子です。私も体はきつかったのですけど、二時くらいまで話してしまって。そうしたらね、最後に息子が『俺も悪かったよ』と言ってくれたんですよ」 どんなことがあって親子の語らいがなくなってしまっていたのか、詳しいことはおっしゃいませんでした。でも、そうおっしゃるとき、この方はとてもほっとされた表情でいらしたのでした。そしてそのようなお気持ちに整えられていたところへ、たまたま私が訪ねてきたということであったのでしょう。この時とばかりに、私に報告してくださったのです。 「人間がみんな愛おしい」 女性はある時私に尋ねられました。 「病気って、神様が与えるんですか?」 それは、こういう仕事をしていて、とても答えに窮する質問です。だから私は、ずいぶんと困った顔をしたまま、「それはつらい質問だな……」と言いました。そしてそれから、付け加えました。 「でもね、Kさんと初めてお会いした時、息子さんと和解したことをおっしゃってくださいましたよね。私は、Kさんご自身にとって、今、とっても特別な時を過ごしておられるのだなと思って、そこに居合わさせてもらっていることに身震いしたんですよ」 するとKさんは、 「そうでしたか、そういう私の時なのでしょうかね。私、最近、死んだらどうなるんだろう、って考えるんです。天国とか地獄とか――うーん、あんまり地獄っていうのは考えないんだけど、天国っていうのはどんなところなのかなって」 私はまたしても考え込みながら、ようよう言葉を継ぎました。 「そうですね……、愛で結ばれたところじゃないですかね。私も行ったことがないので、わからないのですけど。でも、地上に遺した人たちとも、お互いに赦し、赦されて、でつながっていますよね、きっと」 それはその時のKさんとのやり取りから導かれた、私の天国に対するイメージなのでした。するとKさんは語り出されました。 「赦されるって、いいですね。私ね、若い頃は職場でも、あの人は仕事ができる、この人は仕事ができないって、人を評価してはいらいらしてばかりいたんです。でもね、今、自分も病気をして思うんです。みんな一生懸命に生きているんだよなって……」 Kさんの言葉が続きます。 「今日ね、友だちが訪ねてきてくれたのね。目の手術を受けたって言うの。でも結果があんまり思うようではないんですって。それでその辛さを末期がんの私の前で、切々と訴えているわけ。まあ、おかしいんだけど、それでね、私、それが嫌だって言うんじゃなくて、ふっと、『この人も一生懸命よね』って、そんなことを思ったの。私、変かしら。いやね、私、ようやくそう思えるようになったのよ。『この人も一生懸命生きているんだ』って!」 私はなんだかうれしくなって言いました。 「今のKさんの言葉を聞いていると、なんだか人間がみんな愛おしくなってきますね」 するとKさんも、満面の笑顔になり、 「そうなのよ! ほんとうに人間がみんな愛おしい。私、人間がみんな愛おしいって思えるようになったの!」 と興奮されたのでした。私たちはしばらくそのじーんとするような、その恵まれたひと時を一緒に過ごしたことでした。 「ザアカイ! 降りて来なさい!」 高みに登って、誰にも負けまいとひとり奮闘していたところから、もう下に降りてもよいと荷を下ろせるようになる時が来るのかもしれません。そしてそれは、最も低い姿勢から、誰かが自分のことを赦してくれたと安堵できた瞬間に訪れるのでしょう。 ザアカイはいちじく桑の上でその瞬間を迎えました。ローマの徴税請負人として財を蓄えてきたザアカイ。彼は人垣に埋もれて、その有名人を見ることができないので、「走って先回りし」(ルカ19・4)、いちじく桑の木に登ったのです。人より先に走っていくこと、そして人より高いところに登ることが、彼の生き方だったのでしょう。 ところが、その高いところに留まったとき、低いところから語りかけられる自分の名前を聞いたわけです。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(同5節) イエスとザアカイは、その晩大いに語り合ったのではないでしょうか。一緒に夜を過ごしてくれる人に出会って、ザアカイはひとりで頑張る必要がなくなったのでしょう。そして、その財産を、周りの人みんなと分かち合う喜びに満たされたのだったと思うのです。 赦されて旅立つ 「人間が、みんな愛おしい」と思えることは、決して当たり前のことではありません。それほどこの世の営みはお気楽なものでもないでしょう。でも、そう思えたなら、どんなに幸せなことであるだろうとも思うのです。 「ごめんなさい」と言ったのはKさんの息子さんの方でした。でもそのことで赦されたのは、Kさんの方であったかもしれません。Kさんは心晴れやかに、天に帰って行かれたのでした。もう「ジコチュー」でなくても良くなったからであったように思うのです。 (月刊『福音宣教』2022年1月号目次 「かたわらに、今、たたずんで」より)
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