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コラム

コラム一覧へ 「惜しみ無く、惜しげ無く」

浜 矩子(のりこ)(同志社大学名誉教授・東京教区信徒)
 本日のヨハネによる福音(6・1-15参照)は、主の愛の本質を実に良く我々に告げ知らせてくれていると思います。そこには、二つの側面がある。そう感じます。一つが「惜しみ無さ」。そしてもう一つが「惜しげ無さ」です。
 どこが違うの? そう思われるかもしれません。それもごもっともですが、筆者には、この二つのフレーズに似て非なる違いがあると思われるのです。そして、この両者を兼ね備えているところに、主の愛の本質があるのだと感じるのです。
 欲しいと言われたものを「惜しみ無く」与える時、そこには限りなき優しさが満ちています。ともかく、一刻も早く、人々の欲求を満たしてあげたい。大勢の群衆を目の当たりにして、イエスはまず「この人たちがお腹をすかしては可哀想だ」と思われたのです。何を語りかけるかを考えられる前に、群衆のお腹の具合を心配される。この優しさの何と限りないことか。
 しかも、パンと魚の与え方の何と大らかに豪快だったことか。そこにあるのが「惜しげ無さ」です。効率性など、まるで考慮に入れていない。「持ってけ持ってけ」という感じです。これでもかとばかり、豪快に与える。それが惜しげ無さです。このケチ臭さの不在が、いかにも神様の愛らしい。
 翻って、今の世の中はどうでしょう。なにかにつけて、費用対効果を計算したがる。やたらと「コスパ」とか「タイパ」などという言葉が流行るようになっています。コスパはコスト・パフォーマンス。タイパはタイム・パフォーマンスです。ともかく、カネも時間も無駄使いしたくない。いずれも効率的に使いたい。そこには、優しさも豪快さもない。自分が得をしたい。自分が損をしたくない。この心理の中に、愛が芽生える余地はありません。
 お互いに惜しみ無く与え合う。惜しげ無く与え合う。この優しさと豪快さに世界が満ち溢れた時、我々は恒久的で地球的な平和を手に入れることができるでしょう。
 イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
(ヨハネによる福音6・1-15 日本聖書協会発行『聖書 新共同訳』1999年版より)

『聖書と典礼』年間第17主日 B年 (2024年7月28日) 表紙絵解説

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