新年明けましておめでとうございます。年頭にあたり、神の愛からの多くの恵みに感謝しつつ、一人ひとりの心に愛が注がれ、希望の証人と真の平和の道具へと変えられるようにお祈り申し上げます。 さて、二十五年に一度開催される通常聖年の折に、免償を求めて祈ることはもちろん、その基本的要素である聖なる巡礼を行うことも勧められています。今回のテーマから考えると、神の愛との出会いから生まれる希望を再認識し、福音の種をたゆまず蒔く者となることが強く求められます。この精神のもと、信仰の原点に立ち帰り、福音の喜びと平和への道を歩んでまいりましょう。 その第一歩として教会の扉と心の扉を開くことが必要とされます。数年前に見たことですが、ある親御さんが仕事帰りに子どもを迎えに行ったあと、たまたま教会の前を通ると、二人は聖堂に入り、しばらくして出てくると頭を下げ、去っていきました。あるときは、学校の先生が出勤前後に聖堂に立ち寄る様子もたびたび見かけまた。どちらも、聖堂に来た人の輝くような姿を見て嬉しくなりました。聖霊に促されて神を探し求め、開いている主の家を訪れて、感謝と賛美の祈りができたことは素晴らしいことだと思います。 谷川の水を求める鹿のように、心の渇きを満たしてくれる「祈りの家」(マタイ21・13)を求めて寄っても、閉ざされた門にぶつかってしまう人が少なくありません。日々の生活に追われている人、旅行者などが時にはそうでしょう。神を礼拝する場所(ヨハネ4・21-23参照)は多様ですが、聖堂は特に適切なところです。とりわけ社会的規範が崩れたかのような悲惨な凶悪事件が相次いでいる今でも、万全を期して週に数時間でも聖堂を開けることは大切です。もちろん、いたずらや冒涜の目的で聖堂に行く人がいることも否定はできません。しかし、教皇フランシスコは勧めています。いかなる理由があっても「教会は、つねに開かれた父の家であるよう招かれています。開かれていることの具体的なしるしの一つは、どの教会でも門を開いたままにしておくことです」(使徒的勧告『福音の喜び』47)。 聖年中、ローマの「聖年の扉」を訪れることができる方は少ないでしょう。それでも普遍教会と心を一つにして、私たちのそれぞれの生活の中で熱心に祈り、巡礼の心で生きることができます。そのために、司祭が居住する小教区や、特に各教区で指定される巡礼教会への訪問のために、一日中、聖堂の扉を開けておくことは大いに助けとなります。そうして聖堂は巡礼者にとって、「信仰の道での英気を養、希望の泉で喉をうるおす、霊性のオアシス」(『希望は欺かない――二〇二五年通常聖年公布の大勅書』5)となるでしょう。 加えて、世界平和を祈り、真の平和の開花へと導く心の扉をも開けなくてはなりません。教皇が思い起こさせるように、心を失ったかのように思われるこの世界にあって、キリストの愛の心との出会いから湧き出る謙虚で清貧な心の大切さを再発し、人間らしく思いやりや尊厳をもって生きることに励んでいきたいと思います。 国際情勢に目を向けると、世界平和の兆しが見当たらないどころか、依然長引く戦争の悲劇、社会的格差、暴力などという落胆させる状態が増える一方です。聖年のモットー「希望は欺かない」からすれば、そういった厳しい現実の中でも、兄弟愛に満ちた世界を目指し、希望を蘇らせることが信仰者の使命です。時のしるしを読み取りながら、愛の実践に尽くし、希望のしるしを示し続けることです。愛そのものでおられる神は私たちの苦悩に無関心な御方ではありません。御子の十字架は「苦しむ人間に対する神の連帯の証し」(教皇ヨハネ・パウロ二世『希望の扉を開く』参照)です。 キリストの勝利は私たちの希望の源です。ともにおられる神だからこそ、私たちはあらゆる事柄に立ち向かい、困難に打ち勝つ信仰の力、神の大いなる働きを与えられます。それは、神の愛に自分の心を開くことによって与えられる豊かな恵みです。この聖年において、その恵みに満たされ、救いの喜びと平和が一人ひとりに行き渡り、互いの絆と理解を一層深めていけるよう切に願います。 『聖書と典礼』神の母聖マリア (2025年1月1日)表紙絵解説 |