2019年7月14日 年間第15主日 C年 (緑) |
だれが……襲われた人の隣人になったと思うか(ルカ10・36より) 旅人を介抱するサマリア人 ステンドグラス フランス シャルトル大聖堂 13世紀初め 「善きサマリア人の譬えの窓」と呼ばれる、一連のステンドグラスが、フランス、シャルトル大聖堂の南側の側廊にある。この譬え話は、きょうの福音朗読箇所(ルカ10・25-37)のうち、30節から37節にあたる。 この窓は、全部で24画面あるが、この譬えに関係しているのは、第4~第12画面である。第4画面は譬えを語り始めるイエスを描くもの。続いて第5~第8画面は、旅人が追いはぎに襲われ、けがをしたのに祭司とレビ人が通りすぎるところまで(30-32節)。第9~第11画面は、善いサマリア人が旅人の傷の手当てをし、ろばに乗せて宿屋に連れていく場面(33-34節)。続く第12画面が表紙に掲げたところで、宿屋でサマリア人が旅人を介抱する場面(34節末尾)である。このあと、続いて第13~22画面は、アダムとエバの創造と罪に陥る話(創世記2・4~3・24)、第23画面は、カインがアベルを殺す場面(同4・8)、最後の第24画面は、救い主キリストの姿を描く。 このような全体の構成が、実は、善きサマリア人の譬えに対する一つの解釈を示している。罪に陥った人類を救うキリストを、善いサマリア人が象徴しているという見方である。旅人の様子を訪ね、看護しているサマリア人の姿のうちに、人々は、神の愛の究極の体現者であるキリストの姿を見ていたのである。 この画面のもう一つの興味は、善いサマリア人がキリストの象徴というだけでなく、傷を負った旅人自身がキリストのようにも見えることである。困難にあっている人のうちにキリストを見ているとしたら、ここは、マタイ25章31-46節の教えを思い起こさせる。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、……」(35節)という箇所である。困難に遭っている人のうちにキリストを見るというところで、隣人愛の本質が語られるというところは、ルカ福音書だけが伝えており、この善いサマリア人の譬えとも相通じている。 どちらの見方も、ここでの神のメッセージを補い合うものといえるのではないだろうか。社会の指導的な立場にある人々(祭司・レビ人)とは、まったく異なり、ユダヤ人とはいがみあっていたといえるサマリア人の中から、本当に善い人が現れてきてくれた。一方では、そのような存在としてイエスのことが語られている。他方で、我々自身が、そのように困難に遭っている人を無視せず、社会的立場にとらわれず、純粋に「憐れに思い」(ルカ10・33)という心のみに動かされて、できるだけの手を尽くす者となるよう、暗に教えられている。まさしく、「隣人愛」の実例教訓である。朗読箇所末尾でのイエスの問いかけにある「隣人」という言葉は、困っていない自分を中心にして、困っている人のことを「隣人」と呼ぶ関係ではなく、困っている人を中心にして、その人にとっての「隣人」とはだれかという問いかけ方になっている。これも深いものがある。一方で、イエスは、朗読箇所の前半では、「隣人を自分のように愛しなさい」という旧約の掟(レビ19・18)をそのまま、永遠の命を受け継ぐための方法として示している。 どちらが隣人なのか。「善いサマリア人」の譬えとそれを描くステンドグラスの描き方自体にも、この問いかけが反映しているようである。隣人であること、隣人となることは、おそらく、世話を受ける者、世話をする者、どちらの身に対してもあてはまることなのだろう。そのどちらにもキリストがいる。そのキリストは目に見えない、父である神の姿である。 きょうの第2朗読コロサイ書1章15-20節の内容は、福音と第1朗読である申命記30章10-14節を結びつつ、さらに深め、充実させるものといえる。 思い起こせば、教皇フランシスコによる「いつくしみの特別聖年」(2015年12月8日~2016年11月20日)というものがあった。「誰も神のいつくしみから除外されることはないのです」との教皇の呼びかけ、そして特別聖年公布の大勅書のタイトル「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」など、すべてのメッセージがきょうの聖書と響き合う。善いサマリア人の譬えもたびたびそこで引用され、語られた。それは、今日、ますます鋭いメッセージでとなっている。 |