2019年11月17日 年間第33主日 C年 (緑) |
わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる (ルカ21・17より) 逮捕されるキリスト(上) ステンドグラス フランス シャルトル大聖堂 12世紀 「すべての人は、神によって生きている」--復活をめぐるサドカイ派の人々との議論で、死んでからのことを詮議する彼らに対して、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言い、そして「すべての人は、神によって生きている」とイエスは力強く告げる(ルカ20・38参照)。 きょうの福音は、イエスが弟子たちに迫害や苦難を予告する終末説教にあたる。その中で、イエスは保護と助けを約束する。そして、イエスは、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」(ルカ21・16)とまで語る。実際、イエス自身が弟子の一人から裏切られ、最後には十字架上の死に至る。このことを踏まえて、朗読箇所で予告されている弟子たちの運命に関連させて、イエス自身に起こった、ユダの裏切りによる逮捕の場面を表紙のステンドグラス作品とともに味わいたい。 それはまさしくイエスの受難の始まりを告げる、4福音書すべてが述べる(マタイ26・47-56;マルコ14・43-50;ルカ22・47-53;ヨハネ18・3-11)出来事である。ユダは、自分がイエスに接吻することで、誰がイエスかを知らせ、逮捕させようと決めていた(マタイ26・48、マルコ14・44)。そこで、描かれるときは、ユダの接吻を中心に、周りにイエスを逮捕しに来た人々が数多く描かれるのがつねである。 上の図のステンドグラスでも、イエスの顔のすぐ横にユダの顔がある。丸い空間の中に描き込まれているために周りの人々の騒がしい様子がより強く感じられる。ところが、イエスの顔は真正面を見ながら、きわめて冷静である。この画面を見る者に、この出来事の意味を訴えかけているように見える。 もっとも、それは福音書の叙述の趣にも対応している。イエスは、ユダの裏切りをもすでに見抜いていた。表紙絵ではステンドグラスの下の部分も示しているが、そこがまさしく最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面である(以下を参照=マタイ26・21-25;マルコ14・18-21;ルカ22・21-23;ヨハネ13・21-30)。下の図では、右手前からイエスの前に置かれた器に手を延ばしているのがユダである。イエスは左手をユダのほうに伸ばし、その裏切りを指し示している。こう見ると、ステンドグラスの二つの場面は、下から上に向けてユダの裏切りの予告とその実現を描き出していることになる。上の逮捕の場面も、下の最後の晩餐の場面も、周囲にいる人々(上は捕手や群衆、下は弟子たち)をよく表現している。そして、下の場面でも、上と同様に、イエスは真正面を向いている。これらの出来事を貫く神の計画を静かに訴えているようである。 さて、きょうの福音朗読箇所で、イエスは弟子たちに、彼らが迫害(きょうの福音ルカ21・12参照)、裏切りと殺害(16節)、憎しみ(17節)を受けることを予告する。しかし、それらがすべて「証しをする機会となる」(13節)こと、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(15節)ことを約束する。そして、ひたすら「忍耐」(19節)を呼びかける。ここで語られる忍耐は、人間的な苦しみを人間的に耐え忍ぶことというより、神の力に寄り頼み続けることであり、神とともに生きることそのもののしるしである。神の力を、自分自身を通して示すことといってもよい。ステンドグラスに見るイエスの表情に見られるように、冷静で平然とした態度のうちに忍耐の模範があるのではないだろうか。 これらのことを踏まえて、第1朗読のマラキ書3章20節aを最後に味わおう。「その日が来る」といわれる主の裁きの日は「炉のように燃える日」といわれる(19節)。そのことと「わが名を畏れ敬うあなたたち」(20節a)の態度がいわば対照的に述べられている。とすると、神を畏れ敬う人々の態度は、冷静で穏やかな礼拝心に満ちているといえるのではないだろうか。神に信頼しきった態度はそういうものなのではないだろうか。それは忍耐の姿でもあろう。そして、そのように「わが名を畏れ敬うあなたたち」には、「義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(20節)と告げられる。「義の太陽」とは、正義と輝きに満ちた神の救いの介入をイメージしたものであり、キリスト教の教父たちの解釈伝統の中で、救い主キリストのイメージともなっていく。太陽の日(日曜日)が主日であること、ローマ暦の冬至の日が太陽の誕生日として祝われていた伝統をもとに、降誕祭が形成されていく背景となる重要な表象である。 このステンドグラスの中のイエスの顔はどちらも穏やかな光を帯びて、すでに輝いている。 |