2019年12月22日 待降節第4主日 A年 (紫) |
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい (マタイ1・21より) ヨセフの夢 象牙細工 フランス ルーアン古代美術館 11~12世紀 表紙の作品は、きょうの福音朗読箇所(マタイ 1章18-24節)の一節、ヨセフの夢に天使が現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。……マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1・20-21)と告げる場面である。 天使の姿の大きさ、その翼がしっかりと広げられ、ヨセフを覆い尽くすほどであるところに目が引き寄せられる。一般に天使は、身体性を感じさせない軽やかで優美な姿で描かれることが多いのに、ここは力強い男子の印象である。腕も太い。告げることばの力強さが強く示されている。 寝床のヨセフの腕の描き方も細かいが、それ以上に彼の身体をすっぽりと覆う掛け布が印象的である。折り重ね部分があるところから、全体が重いのではとも思わせる。描き方に意図があるとするなら、それは、地上の存在として、神の計画の計り難さの前で思い悩むヨセフの人間性を象徴しているのかもしれない。そうした人間ヨセフに天使のお告げがあり、彼は救いの計画における重要な存在となっていく。 普通「お告げ」というと、天使ガブリエルのマリアへのお告げ(ルカ 1・26-38)がすぐ連想されるが、ここの主題となっているのはヨセフへのイエス誕生のお告げである。それを述べるマタイの叙述は、ヨセフの心の中の陰影を窺わせる。世間の目を気にして、聖霊によってみごもったマリアのことを表ざたにしないよう、ひそかに縁を切ろうとまで決心していた(マタイ1・19参照)。彼は神を畏れる人、「正しい人」(同19節)であった。その彼に天使は、マリアを妻として迎え入れること、生まれてくる男子を「イエス」(「救い主」を意味する)と名付けるよう命じる。これまでのユダヤ人社会にある信仰や慣習の次元を一歩も二歩も踏み越えていくような事態である。 アブラハムの召命(創世記12章1-9節、そこではアブラム)をも想起させる。アブラ(ハ)ムがそこで、なんら言葉で答えることもせず、「主の言葉に従って旅立った」(創世記12・4)ように、ヨセフもここで、なんら発言することもなく、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1・24)る。ヨセフは、アブラハムと同様に、主の言葉に聞き従った「正しい人」となり、新しい神の民の父となっていく。ここで、直前のマタイ1章1-17節の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)が思い出される。末尾で「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)となっており、アブラハムからの系譜の中でのヨセフがマリアとイエスの直接接する位置にあり、彼の救いの計画での役割が示されている。 さて、そのお告げの意味をマタイ福音書は、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」というイザヤ書7章14節(きょうの第1朗読に含まれる箇所)にある預言の成就であると説明している。「インマヌエル」というヘブライ語が「神は我々と共におられる」という意味であることも解説される(マタイ1・23参照)。この「インマヌエル」のテーマは、マタイ福音書を貫いている。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)――これらは、現代の我々の集会にまで届くメッセージであることが重要である。イエスは神がともにいる方であることをあかしし、自ら、彼を信じる民とともにいてくださる方である。そのともにいる方の力を、この作品が描く天使の翼がすでに示し始めているのだろう。眠りの中で受けた神の計画を、目覚めのうちに受けとめ、その計画の中で生きる者となるよう、ヨセフのように、我々も招かれている。 |