2020年2月23日 年間第7主日 A年 (緑) |
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい (マタイ5・44より) 鞭打たれるキリスト 二枚折書き板装飾 アトス ヒランダリ修道院 14世紀 主日の朗読A年は、年間第4主日から第7主日まででマタイ福音書の5章全体を読む。5章から7章まで続く山上の説教のうちの5章は初めの部分であるが、それを忠実に読んでいくのは、それだけ重要な内容を含んでいるからである。きょうの朗読箇所マタイ福音書5章38-48節は、新共同訳で「敵を愛しなさい」と見出しがついている(並行箇所はルカ6・27-28、32-36=C年の年間第7主日の福音朗読箇所)。 文脈は「隣人を愛しなさい」という教えの徹底として「敵をも愛しなさい」と告げられる。そのことを強調するために、レビ記19章18節(「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」)にはない「敵を憎め」(マタイ5・43)という文言をあえて加えているのだろう。このことを具体的に教えているのが、その前の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5・39)である。 例としては具体であるが、絵画でこれを表現するのは難しい。むしろ、イエス自身が自らの受難をとおしてこのような「敵をも愛する愛」を実行したにちがいないという意味で、捕らわれにあったイエスが鞭打たれる場面をイメージすることにした。表紙作品は、これまでもたびたび紹介しているアトス(ギリシア中央部、エーゲ海に突き出た三並びの半島の最も東側にあたる岩山からなる半島)のヒランダリ修道院で14世紀に作られた「二枚折書き板」の装飾の一コマである。「二枚折書き板」とは、原語でデュプティコン。東方正教会の聖体礼儀(ミサにあたる)で奉献文の取り次ぎの祈りで記念される、生者・死者を含む共同体のメンバーの名を書き記した板である。イエスの受難のときに受けた辱めを想像しつつ、そこでは口を閉ざして何も語らないイエスの胸にどのような思いが去来しているのかを想像しながら、このマタイ5章の教えを読むと、さらに深く味わえるのではないだろうか。 その際、注目すべき文言がある。第1朗読箇所で読まれる「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19・2)――神が聖なる者であるように、民も聖なる者となるように、とのメッセージである。これと似た形の呼びかけが福音朗読の中でイエスの口から語られる。マタイ5章48節「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」である。並行箇所のルカ6章36節では、これが「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」となっている。全部まとめてみると、聖なること、完全であること、憐れみ深いことが、敵を愛しなさいという呼びかけの根源にあることがわかる。神と一致して生きることへの呼びかけである。それは信仰生活、典礼に参加しながら日々を過ごしていくキリスト者が招かれ、導かれている生き方そのものであろう。それが敵をも愛する愛である。それは、人間の気持ちとして不可能とも思えるようなことだろう。人が自力でそのような行動をとることは不可能であろう。イエスのこのことばは、神のまなざしを意識し、それに近い視点から物事や人間の世界のことを見るようにとの神からの招きであるのにちがいない。不可能なことを求められているのではなく、神にしかできないことを思い、神のわざに身をゆだねることへの招きなのではないのだろうか。イエスは、我々になんの前提もなく自力で「完全な者となりなさい」と言っているのではなく、「天の父が完全であるように」と言っているのである。そこに土台も支えも模範もある。そのことを第2朗読箇所の1コリント書3章16-23節が考えさせてくれる。「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいること」(1コリント3・16)を悟り、そのままに生きることを呼びかけているのである。福音と旧約を結ぶ内容となっている。作品の中の受難のイエスの姿を黙想するとき、三つの聖書朗読箇所が見事に結びついてくる。 |