2020年3月22日 四旬節第4主日 A年 (紫) |
キリストはあなたを照らされる(エフェソ5・14より) 目の見えない人をいやすキリスト モザイク イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀 イエスが目の見えない人をいやす出来事は福音書の中でたびたび語られる。ベトサイダでのいやし(マルコ8・22-26)では、イエスは目に両手を置き、二人の盲人のいやし(マタイ9・27-31)では目に触れる。共観福音書共通に出てくるのは、道端に座っている盲人のエピソード。マルコ10章46-52節(B年の年間第30主日の福音朗読箇所)では、バルティマイという名の一人の男のいやしの話で、彼は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(10・52)というイエスの言葉で治される。並行箇所ルカ18章35-42節では、バルティマイという名は言及されないが、話はほぼ同様である。もう一つの並行箇所マタイ20章29-34節では、バルティマイという名も言及されず、道端で座っているのは二人になっており、目を触れられることでいやされる。つまりマタイ9章27-31節と似ている。 これらのほかにもう一つ独特な出来事がきょうの福音朗読箇所ヨハネ9章で語られるものである(長い朗読では9章全体が読まれ、短い場合は 1節、6-9 節、13-17 節、34-38 節)。ここでは生まれつき目の見えないひとりの人のいやしが主題となっている。このうち直接にいやしの経緯を述べるのは1-7節。イエスは唾で土をこねたものを盲人の目に塗り、シロアムの池に行かせ洗わせる。そのあとは、この出来事に関係して「イエスは誰であるのか」をめぐる議論が中心になり、「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」という、いやされた人の証言がその頂点をなしている(33 節) 。このように、いやしの出来事はイエスが神の権能をもっている方、救い主であることの証明となっている。ここから、目の見えない人のいやしも、単に治療行為としてだけでなく、罪の闇から人々を解放する象徴としても受けとめられていくようになる。 さて、表紙絵は厳密には、この話と対応しているわけではない。目の不自由な人が二人いる点、道端に座っているという点からマタイ20章29-34節のほうがよく対応する。ただ、きょうのヨハネの箇所(9章)でも「座って物乞いをしていた人ではないか」(8節)との証言があることから、道端に座っていることを情景として考えることができる。しかもこのモザイクが表現しているのは、救い主キリストと人間との根本的な関係性にほかならない。イエスは手に神のことばを象徴する巻物を掲げ、右手で主としての力を相手に及ぼしている。まさしく救い主として現れている。そのいやしの力を受けている人の姿はすでに礼拝者としての全面的な帰依と嘆願である。きょうの福音朗読の末尾 ヨハネ9章38節の「主よ、信じます」という信仰告白をここに重ね合わせてもよいし、バルティマイのエピソードの中の「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10・47)を重ね合わせてもよい。もちろん、我々は、ミサの中の「主よ、あわれみたまえ」の歌をここで響かせることができる。岩山からすっくと伸びる木と葉の鮮やかな緑が新しいいのちを感じさせる。 ここで語られている出来事は、生まれつきの難病を治癒させた奇跡の一つというだけでなく、キリストによる救いの根本的な意味を示す暗示に富んでいる。このことをさらに深めさせてくれるのが、第2朗読のエフェソ書5章8-14節である。生まれながら目の見えない人は、生まれたときから原罪の闇の中にいた人間全体の象徴である。今、キリストが来られていることで人は「光」になっている。目が見えるようになるということで、神からの光、キリストの光のもとで、すべてが明らかになる状態の中に置かれているというのである。古来、入信の秘跡に対する準備の中で、目の見えない人をいやすイエスの奇跡が重要な教えとして授けられていた。それは、洗礼の意味、入信の意味とそれからの信仰生活の全体に関連していく。「光の子として歩みなさい」(エフェソ5・8)――復活ろうそくから光を分けられるという復活徹夜祭の入信式にある儀式(儀式書『成人のキリスト教入信式』107ページ参照)は、このメッセージと結ばれている。そのことの意味を自分たちの中であらためて深める四旬節の日々としたい。 |