2020年7月5日 年間第14主日 A年(緑) |
見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってく来る(ゼカリヤ9・9より) エルサレム入城 ステンドグラス フランス シャルトル大聖堂 12世紀半ば きょうの福音朗読箇所は、マタイ11章25-30節。「天地の主である父よ」から始まる前半は、父への祈り(27節まで)で、28節からは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(28節)に始まる、人々へのメッセージである。その中から朗読の主題句は29節からとられている。「わたしは柔和で謙遜な者だから」である。福音との主題関連で配分されている第1朗読(ゼカリヤ9・9-10 )の主題句「見よ、あなたの王が来る。彼は高ぶることがない」というのは、ゼカリヤ9章9節からの文言である。これらから、この日の聖書朗読(福音と旧約)の配分では、柔和で謙遜な(高ぶることのない)王(メシア=救い主)であるキリストが主題となっていることがわかる。表紙絵がイエスのエルサレム入城の絵としてあるのは、それにちなむものである。 ステンドグラスのこのイエスは、四角の空間の中でちょうど真ん中に位置している。そして、ろばの背に座す部分がちょうど四角形の真ん中に来ている。イエスの座は玉座でもなく、馬でもない。このろばの描写が秀逸ではないだろうか。イエス一人を乗せて歩くのも必死なような姿、よろよろとかろうじて進んでいるかのような表情に見える。それに対して、イエスの顔は晴れやかで、人々に祝福を送っている。主の尊厳に満ちている。後ろに見える群衆の男たちの顔は、イエスの登場をいぶかしんでいるかのようである。よくここまでステンドグラスで表現できていると思う。前のほうにいて枝を掲げている青年は明らかにイエスを歓迎する人々であろう。イエスを受け入れがたく感じる人々の側から歓迎する人々の側に前進していくイエスのこの動きの中に、受難から復活へという過越の神秘の暗示があるように感じられてならない。 ところで、この日のマタイからの福音朗読箇所とゼカリヤ書からの第1朗読箇所の関係を見てみると、大変興味深いことがある。まず、イエスのエルサレム入城の場面はどの福音書にも記されている(マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)。だが「高ぶることなく」の語句を含むゼカリヤの箇所があるのはマタイだけである。その引用句についてであるが、ゼカリヤ書9章9節は「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」とある。マタイ21章のエルサレム入城の場面では次のような形で引用される。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21・5)。ゼカリヤ書本文の「高ぶることなく」にあたるところがマタイの引用では「柔和な方」となっている。福音書の引用は旧約聖書ギリシア語訳(七十人訳聖書)に基づくことによる用語の変更といえるが、この王の姿をさらに言い換えて表現している語句であることは確かであろう。そのことに留意しつつ、きょうの福音を見ると、イエスは自分のことを「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11・29)と語っている。ゼカリヤ書の「高ぶることなく」と「柔和な方」を総合した表現であるところに、イエスが預言者の予告した「王」を完全に体現していることが強調されているように感じられる。 もう一つの興味深いことに、きょうの福音朗読箇所のうち前半のマタイ11章25-27節の内容は、ルカ10章21-22節と同様なのに対して、後半28-30節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」は、全福音書中マタイだけが伝えるイエスのメッセージである。それだけにマタイの伝えるきょうのイエスのことばと、入城の箇所やその背景になっているゼカリヤの預言をも含めて、互いに照らし合わせながら黙想する価値は高い。それは、ミサの中で感謝の賛歌を歌いながら、自分たちの心の中に主の“入城”を迎えるわたしたちの思いをも深めてくれるだろう。ちなみに、ステンドグラスの中のろばは、「疲れた者、重荷を負う者」の象徴にも思えてくる。信仰者であるわたしたちの姿でもあるかもしれない。その労苦の表情の向かう先には安らぎが待っているにちがいない。 |