2020年7月19日 年間第16主日 A年(緑) |
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい(マタイ13・30より) 終末の刈り入れ 福音書写本画 フィレンツェ ラウレンツィアーナ図書・写本美術館 14世紀 マタイにのみ登場する毒麦の譬(たと)えがきょうの福音である。先週読まれた「種蒔きの譬え」からイメージを引き継ぎつつ、主題は、信者の共同体の中に混じ入る信仰の敵や罪人への対処に向かっていく。 ちなみに、毒麦=ドクムギは、実際、一つの植物で、麦と似ていて見分けがたく、成長すると互いに根が絡んで、毒麦だけを引き抜くのは難しいという。そのため、収穫直前になってまず毒麦だけを抜き集めることになっていたという(『聖書植物図鑑』教文館より)。ドクムギの生態や扱い方を実によく反映させた譬えとしても注目されるほどである。収穫のときまで、(良い種も毒麦も)「両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13・30)というメッセージをもとに考えると、我々信者の共同体はまさしく、「両方が育つままにしておかれている」場所であることを考えさせられる。 どの共同体も、どの個人も、毒麦が混じる可能性から除かれていないというのも極めて現実的な認識であろう。それだけに、「育つままに」させられている限り、良い種を育てることにおいて、我々は自由を委ねられていると同時に、その責務・使命が大きいのだ、というメッセージにも聞こえてくる。それがリアルであるだけに一層、使命を受けた民としての神への信頼も強められよう。第1朗読にあるように、神は「御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」(知恵の書12・19)ということばが心強く我々を支えてくれる。 ところで、良い種の麦と毒麦とが分けられるのは、終末の「刈り入れ」の時とされる。そして、この終末における「人の子」の来臨に言及する幾つかの箇所が踏まえられて、表紙絵のような描き方が生まれていると思われる。一つには、きょうの福音朗読箇所の後半にある部分のマタイ13章39節「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」。そして、マタイ24章31節「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあり、マタイ25章31-33 節では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とある。さらに、黙示録14章14-20節も示唆的である。「また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた」(14節)。 このような裁きを意味する刈り入れの「鎌」に関しては、ヨエル4章13節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した」という表現が鮮やかである。イザヤ18章5節「刈り入れ時の前に、花が終わり、花の房が実となり、熟し始めると、主は枝を刃物で切り落とし、つるを折り、取り去られる」も関連深い。 こうした、さまざまなイメージの合成からなる絵の中で、上の天使と下の刈り入れの人の間の空間がもっとも広い。ここが(良い種も毒麦も)両方が育つままだった空間、我々人間の世界を象徴しているのだろう。実際そのような中で「良い種」として育つことが我々には求められているのだろうが、往々にして毒麦の存在に脅かされることがある。そのような状況や事態を見分け、誘惑を退け、よい実りに向かって育っていきたいと思いつつも、なかなか我々は弱い。そんなとき、きょうの第2朗読箇所のローマ書8章26-27節が支えになってくる。「〔皆さん、“霊“は〕弱いわたしたちを助けてくださいます。……“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。ミサに集うとき、そして、家にこもりながら、それぞれの“心の部屋”で祈るとき、心に迫るきょうの福音であり、使徒のことばではないだろうか。 |