2020年8月2日 年間第18主日 A年(緑) |
すべての人が食べて満腹した(マタイ14・20より) パンを分け与えるイエス エヒターナハの朗読福音書挿絵 ドイツ ニュルンベルク ゲルマン国立美術館 1040年頃 きょうの福音朗読箇所は、マタイ14章13-21節で、伝統的な「パンの増加の奇跡」と呼ばれているイエスのみわざの場面である。食べた人は「男が五千人ほどであった」(21節)というところに奇跡があり、また、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」(20節)というところにも奇跡がある。同様の出来事は、マルコ6章30-44節、ルカ9章10-17節、ヨハネ6章1-15節にもある。四千人と数は異なるが同様の話は、マタイ15章32-39節にもある。 少ない食べ物で多くの人を満たしてなお、余りあるほどだったというこの奇跡は、すべての福音書が告げているほどに重要で、なによりもキリストがもたらす食べ物の限りない豊かさを示す出来事として、その後の教会において記憶されていく。そのことは、さらに感謝の祭儀(ミサ)の意味合いと結びついてくる。それは、イエスが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(マタイ14・19)という行為が、最後の晩餐での同じような行為(マタイ26章26-30節参照)の記憶と重なり、聖体の秘跡の意味と結びついていくからである。この行為自体は、ユダヤ人の家で安息日を迎える晩餐や過越祭を迎える晩餐のとき、神への賛美のうちに行う会食の中で繰り返されていた動作であったのだが、イエスが最後の晩餐で聖体の秘跡を制定したときの動作であるという意味で、より一層重要な行為として記憶されるようになるのである。ちなみに、同じような動作は、ルカによれば、エマオの弟子たちが、それによって一緒にいる人が復活したイエスだとわかったという、決定的なあかしとなっていく(ルカ24・30-31 参照)。 このようにして、教会の中でキリストとの出会いの記憶が深められていく中で、パンの増加の奇跡は、聖体の秘跡、感謝の祭儀を示す出来事という意味で記憶され、語られ、そしてキリスト教美術において描かれるようになる。 このエヒターナハの朗読福音書の挿絵も、そのことがより明確に意識されている作品の例である。すなわち、五千人もの群衆を満たした点は、わずか両側の数人ずつの病者を通してでしか示されていない。場面の中心は、あくまでキリストである。いわば聖体となるパンを豊かに恵む存在としてキリストが示されているといえる。そしてそれと同じぐらいに重要なのは、両脇の使徒たちである。彼らは、イエスからパンを受け取り、それを人々に与えていく。仲介者としての在り方がその姿勢の見事な屈曲を通して示されている。キリストの頭の位置、両使徒の頭とその民衆に向かう顔、そしてそれを受け取る人々の顔、これらの動きがキリストを中央にして見事なシンメトリー(対称関係)を作っている。「(イエスは)パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(マタイ14・19)という行為はたくさんの人に次々と行われていた。その持続性が、この一場の画面にとどめられ、やがて永続性を示す画像になり得ている。 イエスはすでに光輪と深紅の衣が示すように受難を通して栄光に入られた主として表されている。両手に持つパンは、すでに自分自身のからだを渡す、奉献の姿そのものである。そして、使徒たちは忠実にそれを受け取り、キリストに従って、人々に奉仕している。 この画面に示される聖体の秘跡の神秘は、永続的なものである。それは、現在も、使徒の仲介的な役割を体現する司祭を通して、感謝の祭儀の中で行われ続けている。ここでパンを受け取る人々の期待と感謝に満ちているような表情は、そのまま現代の信者たちすべての心の顔であるといえよう。人々の姿は画面の外にいる我々にまでつながっている。その我々を真ん中にいるイエスが静かに真っ直ぐに見つめている。背景を満たす緑は、キリストによってもたらされた新しい永遠のいのちを表している。キリストによってもたらされたいのちの恵みは、世界全体に広がろうとしている。 |