2020年8月9日 年間第19主日 A年(緑) |
安心しなさい。わたしだ。恐れることはない(マタイ17・27より) 湖上のイエスとペトロ エグベルト朗読福音書挿絵 ドイツ トリール市立図書館 980 年頃 きょうの福音朗読箇所マタイ14章22-33節は、湖上を歩くイエス、舟の中の弟子たち、そしてペトロの行動を大変ドラマチックに伝える。表紙の絵がとらえているのはそのうちの30-31節で、沈みかけたペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言う場面である。一連の出来事の中で、どうしてもイエスが湖上を歩くという奇跡に目が奪われてしまい、先週の五千人に食べ物を与える話のすぐ後のエピソードであることもあって、連続する奇跡に関する叙述として受け取ってしまいがちだが、本来は、ここにもキリストと教会の関係にとって意味深い教えが含まれている。そのことを示すのが、ペトロとの最後のやり取りである。それは、キリストに対する我々の信仰のあり方を問いかける一つの象徴的な出来事である。 絵にしてみると、このことは一層はっきりしてくる。弟子たちが乗っている舟は教会の象徴、逆風は信者たちに押し寄せる迫害の嵐であると考えられる。彼らを恐怖のどん底に置く嵐の中でも、主イエスは、それら地上のことを超えた存在でもあり、同時に弟子たちのすぐ近くにいるという暗示である。実際、絵の中のイエスは光輪と紫の衣によって栄光の主であることが強調されている。「主よ、助けてください」とペトロがすがりついた「主」の姿である。イエスが左手に抱える書物から思い出されるのは、ヨハネ6章68節に出てくるペトロの信仰告白である。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ミサの聖体拝領の前での信仰告白になっている言葉)。ヨハネ1章でいわれる「言」(ことば)そのものである御子キリストがここに描かれているといってもよい。 このように見ていくと、一つの明確なメッセージが浮かび上がってくる。イエスこそ我々を恐怖から解放し、いつも「わたしだ」(わたしがいる)と言って共にいてくれる方である。そして、そのイエスに一切の恐れも迷いも揺らぎもなく、信頼し従っていくことが我々には求められているということである。ペトロが沈みかける湖水は、信者ならだれもが陥りうる状況の暗示だろう。ただこの絵ではペトロをそこでもがいている者としてではなく、イエスによって確保された安心感と信頼の中にある人として描かれているようである。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というイエスの言葉も、叱責の言葉というより、慈しみのこもった招きの言葉として聞こえてくる。 ところで、この話は、マルコ6章45-52節、ヨハネ6章16-21節も伝えるが、マルコはちょうどマタイの記述の前半、恐れる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語るところまでで終わっており、ヨハネも同様に「わたしだ。恐れることはない」と告げるまでで終わっている。マタイ福音書が記す、ペトロがイエスに「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言うところ(マタイ14・28)からは、マタイだけにある固有の内容である。その意味では、ペトロをクローズアップする他の箇所(例えば、今年の年間第21主日で読まれる16章13-20節、年間第22主日で読まれる16章21-27節)とのつながりの中で味わっていくべき箇所であろう。 もう一つ、関連させるとよいのが、ヨハネ福音書21章1-14節における復活したイエスの現れのエピソードである(新共同訳の見出しは「イエス、七人の弟子に現れる」)。ペトロを先頭に漁に出かけた総勢7人の弟子たちが何も捕れずにいたところ、イエスが現れて岸に立って語りかける。そのことばに従って、弟子たちが網を打つと「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(6節)。そこで、「主だ」と気づいたペトロが湖に飛び込むというくだりである。さらにヨハネ21章はその15節から19節までイエスとペトロの対話、というより、ペトロへの再度の召命の話となる。ペトロは、使徒たちの象徴、ひいては、キリスト者すべての象徴である。手を差し出すイエスに荒波から姿を起こしてすがりついている、この表紙絵のうちに、我々は自分たち自身を見ていくことになるだろう。 |