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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年9月6日  年間第23主日  A年(緑)  
わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない(エゼキエル33・7より)

預言者エゼキエル 
モザイク(部分)
ギリシア テッサロニキ オシオス・ダヴィッド聖堂 5世紀末

ギリシア都市テッサロニキのオシオス・ダヴィッド聖堂の祭壇域は半円蓋で覆われており、その壁を飾るモザイクの一部にこのエゼキエルが描かれている。エゼキエルの右上には、全身を大きな円光に包まれて虹の上に座っている荘厳のキリストが描かれていて、キリストを包む円光の四隅には、人、獅子、牛、鷲という四福音記者の象徴が描かれているという。この四体のシンボルは、エゼキエル書1章で語られる、四つの顔の生き物に囲まれた主の顕現の様子を前提としている。その関連もあってキリストの左下に預言者エゼキエルが描かれていると思われる。
 ここでエゼキエルは、樹木の繁る岩山で前かがみになって両手を耳もとに置き、じっと何かを聞こうと身構えている。それは、きょうの第1朗読箇所(エゼキエル33・7-9)に即して言えば、「あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」(33・7)という預言者の使命そのものを象徴する姿勢である。いうまでもなく、預言者は、神の言葉を「預託された者」、すなわち神の言葉を託されて、それを民に告げる者である。その源にはまず語りかける神がいる。預言者は告げる人である前に、まず聴く人である。ここのエゼキエルの姿は、ユーモラスにも感じられつつ、そのような預言者のあり方の本質を映し出している。
 きょうの福音朗読箇所(マタイ18・15-20)と第1朗読箇所のエゼキエル書の内容的なつながりが浮彫りにするのは、神のことばを伝える者が、ある場合には、罪を犯す人に対して、忠告や警告を行うことの重要性である。エゼキエル書の場合は、もし預言者が悪人に警告しないなら、その人が自分の罪のゆえに死んでも、その血の責任が預言者にある(エゼキエル33・8参照)とまで言われる。福音朗読箇所でもまず罪を犯した本人に個人的に忠告することを勧め(マタイ18・15参照)、聞き入れないときには、二人・三人の前で本人が罪を告白するように勧め(16節参照)、それでも聞き入れないときは「教会に申し出なさい」(17節参照)といってだんだんと公の償いを求めるような手続きの段階が示されている。初代教会における贖罪制度の萌芽が現れているのかもしれない。
 これらの箇所を通じて示されるのは、神のことばを託されていることに対しての厳粛さ、重さといったことだろう。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」(マタイ18・15)という、いわばイエスの弟子が被害を受けた状況でも、個人レベルでの感情や思いを超えたところでの「神のことば」を告げるという意味での忠告、警告の実践が求められている。エゼキエルに語る主のことば、弟子たちに語るイエスのことばはきわめて明確ではあるが、それだけに、果たしてそれを一人間としての弟子たちがなしうるのだろうかという気持ちにもなる。エゼキエルはその使命に徹した預言者として我々に伝えられているが、イエスの弟子たちにそれができたのだろうか。あるいは、このメッセージを現代に生きるイエスの弟子として我々信者が十分に対応できるだろうか。
 逆から見ると、我々は、人が罪を犯し、罪を犯される状況にあって、むしろ、神の意志がどこにあって、何を告げるのかを考えて、どこまでもそれを体現しなくてはならないということでもある。そのあたりのところに、福音朗読箇所の次の部分で告げられる、一見謎めいたことばが触れているように思われる。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18・18)。いろいろな解釈が向けられる箇所だが、今見てきた文脈で素直に考えるならば、神のことばを託される者、イエスの弟子である者の地上での行いは、その効果が天上でも同じように実現するほどに重大だということになる。それゆえに、天上でつながれ、解かれるように、地上でもつながれ、解かれなくてはならない。そこにキリスト者の使命がある。その使命を前提として、「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」(主の祈り)と祈るのではないだろうか。
 朗読箇所の最後のことばは、有名な「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)である。このことばも信者が寄り添っているところにキリストがいるという慰めのメッセージというよりも、キリスト者がキリスト者として(キリストの名のもとで)集まっているところには天の意志に則した、ことばや行いが求められる。その源はいつもキリストの現存であるという、キリスト者の使命の宣言であり、その実行のための励ましのメッセージであると思われる。それは、このマタイ福音書の最後、キリストの派遣のことばの結びに直結する。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

年間第二十三主日
 15節で「いさめる」とか「忠告する」と訳された言葉(エレンコー)には「光にさらす、明るみに出す」の意味もある(エフェソ5・11、13)。罪を犯した兄弟を「戒める」とは滅びを望まない神の光に兄弟をさらすことである。戒めに憎しみが伴ってはならず、滅びを望まぬ神の愛に向けさせねばならない。

雨宮 慧 著『主日の福音──A年』「年間第二十三主日」本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

『聖書と典礼』年間第23主日(2020年09月06日)号コラム「すべてのいのちを守るための月間(九月一日―十月四日)」

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