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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年9月13日  年間第24主日  A年(緑)  
七の七十倍までも赦しなさい(マタイ18・22より)

十字架のキリスト 
木彫(部分)
フランス オゾンの聖ラウレンチオ教会 12世紀

 この12世紀の木彫のキリスト磔刑像は、不思議な作品である。十字架に磔になりながらも、その顔は苦痛でゆがんでいるわけではない。むしろ、目を開いて穏やかな表情で、その顔を見るものを見つめているようである。キリスト磔刑図あるいは磔刑像の歴史でいえば、この12世紀頃には死んだキリストの姿を描くものが多くなっていくが、イタリアの板絵などでは、十字架の上で目を見開いて正面を見つめるような生けるキリストを描くという、より古代的な伝統も残っていた。この十字架像は身体の全貌までは見えないが、顔が右に傾き、やや下がるところで、死にゆくキリストの描写に入っているのかもしれない。
 このような描写は、福音書が描く十字架での死の場面のさまざまなところを重ね合わさせる。
 マタイとマルコは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46;マルコ15・34)と叫んでから息を引き取る姿を記し、ルカは、同じように十字架にかかっている一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)と告げ、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)と言って息を引き取る姿を記す。ヨハネでは、ぶどう酒を含ませた海綿をヒソプから口もとに付けられてこれを受けて、「成し遂げられた」と言って息を引き取る(ヨハネ19・30)。福音書のそれぞれの描写は、イエスの生涯のさまざまな意味合いを示す印象的なことばとともに、その死の瞬間に我々の目を向けさせる。おそらく十字架像を刻む人々も、それらを踏まえて、さらにイエスの表情を沈思し形に刻んでいったのだろう。
 ところで、きょうの福音朗読箇所は、イエスの受難の朗読というわけではない。マタイ18章21-35節という長い箇所で、冒頭には、自分に罪を犯した兄弟がいた場合、何回赦すべきかという問いが示される。それに対して、イエスは「七の七十倍まで」という強調をもって限りなく赦しなさいと答える(マタイ18・21-22参照)。続いて、一つのたとえが語られる。主君から借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に借金をしている仲間を容赦しなかったところ、主君が怒り、その家来を牢役人に引き渡したという印象の強い話である。神のゆるしを受けている人間が自ら人をゆるすことがなければ神の怒りを受けることへの戒めである。一見、恐ろしい結末を提示するような警告のように響くが、そのもとには、神のあわれみとゆるしは限りないもので、すべてに先立って人に向けられているという教えがある。憐れに思う(27節)、憐れむ(33節)という動詞がキーワードである。よく解説されるように、憐れに思うは「はらわたを痛める」という語義のことばであり、神の人に対する共感の深さ、ともに痛み、苦しむ神のみ心が集約されている。
 この神のあわれみを受けて、だれしもが兄弟姉妹に対して、隣人に対して、共に対して、あわれみ深くあれ、ということがきょうの第1朗読箇所のシラ書(27・30~28・7)では、さらに知恵の格言のように語られる。「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」(シラ28・2)や、あるいは反語的な表現「自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか」(同4節)は、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という律法を解説するものといわれる。神のゆるしを告げ、そのあわれみといつくしみをたたえる答唱詩編(詩編103 ・3,4,8,13,11,12)も、きょうの福音と第一朗読を貫く教えに満ちている。
 重要なのは、これらの箇所が「主の祈り」の中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りの意味を説き明かすものだということである。マタイの本文による「主の祈り」(マタイ6・9-13)には、そのあとにすぐ「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(マタイ6・14)とあり、きょうの教えともちょうど呼応し合う。
 そして、このような神のあわれみとゆるしを究極的に示したのが十字架のイエスである。十字架上の死へと向けられていく中に働く罪の支配を、限りない愛の支配をもって凌駕する出来事が十字架の死、そして復活である。きょうの聖書朗読や答唱詩編を貫く神のあわれみとゆるしについての教えは、十字架のイエスと切り離しては考えられない。
 イエスの地上のいのちの最後の瞬間を写し出すこの彫像とともに、神のあわれみとゆるしについて黙想をすることは味わい深いだろう。そこには第2朗読箇所(ローマ14・7-9)の「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・8)といったパウロのことばを重ね合わせてもよい。
 今年は明日9月14日が十字架称賛の祝日である。十字架のイエスを、きょう、あすと黙想してみよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

13 七
 ヨハネの黙示録には、ほとんど各章に七という数字が出てきます。そして現代の教会でも、七つの罪源(高慢、妬み、憤怒、物欲、色欲、貪食、怠惰)や、聖霊の七つの賜物(上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、畏敬)、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)など七は重要な数字とされています。
 では、七は何を意味するのでしょうか。

ミシェル・クリスチャン 著『聖書のシンボル50』「13 七」本文より


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