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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年10月11日  年間第28主日  A年(緑)  
あなたは、……わたしのために会食を整え (答唱詩編 詩編23・5より)

主の晩餐 
朗読福音書挿絵
アトス イヴィロン修道院 13世紀前半

 福音朗読箇所であるマタイ22章1-14節では、天の国(神の国)が王子の婚宴にたとえられている。神の国を宴、祝いの会食で表現することも聖書の深い伝統に属す。第1朗読のイザヤ書25・6-10節a も「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」というように、救い主の到来、救いの実現のイメージを祝宴として語る。この伝統がイエスのたとえ話にもつながり、さらにイエス自身が罪人や徴税人と一緒にした食事(マタイ9・10参照)、多くの人々に食べ物を与え満たした出来事(マタイ14・13-21;15・32-39)につながり、十人のおとめのたとえで言及される婚宴(マタイ25・1-13)、そして、最後の晩餐(マタイ26・17-30)にまでつながっていく。この祝宴によってイメージされる救いの実現、神の国の到来、救い主の到来は、今、我々においては、ミサという典礼祭儀になっている主の晩餐、主の食卓にまでつながっていることは言うまでもない。そこで、このキリスト教における祝宴の意味合いを、我々のミサと関連づけて考えるために、ミサの源にある最後の晩餐としての主の晩餐を描く挿絵を掲げている。
 最後の晩餐を描く作品は、東方でも西方でも、ヨハネ福音書13章21-30節の叙述が土台となっていることが多い。この挿絵でもわかるが、イエスの胸もとに身を寄せる弟子の描き方がそれを示す。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」(ヨハネ13・23)、「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それ(裏切ろうとしている弟子)はだれのことですか』と言うと」(ヨハネ13・25参照)という文脈である。多くの絵が、イエスの胸もとに寄りかかるこの弟子のことを強調して描く。その一方で、イエスは自らパン切れをユダに与えるのだが、構図として、ユダがパン切れのほうに手を伸ばすという形になっている。このような描き方をするのは、構図の関係か、あるいはマタイ26章23節やマルコ14章20節のような「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」という叙述の影響があるのかもしれない。
 いずれにしても、最後の晩餐の図は、ユダの裏切りの予告の出来事という意味合いを含めて描かれることが多いのが特徴である。この挿絵の場合、よく見ると、12人の弟子の中で真ん中の鉢に手を伸ばしているユダの顔の部分が剥がされている。うっすらと描かれているのがわかるだけに、あとから何か手が加えられて消されたとも考えられる。ユダに対する態度の一例といえるかもしれない。
 ところで、きょうの福音朗読箇所は多くの解説書によると、王子の婚宴で、先週のぶどう園のたとえと同様に、個々の要素にかなり、マタイの時代の歴史状況が反映されているという。婚宴への招きに2回家来を送る(マタイ22・3-4節)。最初の家来は、「招いておいた人々を呼ばせた」(3節)とあり、この場合の家来は、預言者を指す。二度目に送られた「別の家来たち」(4節)は、「食事の用意が整いました」(4節)と伝える。これは神の国が来ていること、救い主が来ていることを告げるキリスト者たちを意味する。それに対して、ある人々は、「無視する」(5節)が、他の人は、家来たちを「捕まえて乱暴し、殺してしまった」(6節)とある。このひどい所業は、マタイの時代までにキリスト教の宣教者たちがユダヤ教徒から受けた迫害の意味が込められている(マタイ23・34参照)。このことに対して、王が「怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(マタイ22・7)という表現はかなり強烈であり、憎悪さえ込められている。ここには紀元70年のエルサレム陥落のことが念頭に置かれ、それをイエス・キリストを通して差し出されている神の招きに応えなかったユダヤ教徒に対する神の罰があったと見るマタイの歴史観が反映されているという。続く8ー9節は、「招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、……だれでも婚宴に連れて来なさい」という形で異邦人宣教への展開が語られている。前の主日の福音朗読と同様である。
 このような、初期の宣教史におけるユダヤ教世界から異邦人世界への展開の記憶が刻まれているものとして、マタイの叙述を見ることもできるが、今、我々へのメッセージとして見るならば、神の国の到来、救い主キリストとの出会いに対して、自分たちはどういうあり方、生き方をしているかという見方で受けとる必要がある。表紙作品が示すような最後の晩餐におけるユダと「イエスの愛しておられた弟子」(一般にヨハネと考えられる)との対比が、神の前で人間が取る対応の典型を示すものとなっている。なぜ、神の国は婚宴や祝宴のイメージで語られるのかと問いかけた時、いのちの根源、人類の共同性・共存性の意義を示す会食の特徴が浮かび上がる。身体的満足や喜びが精神的、霊的な充足や喜びの象徴となるという食事のもつ多層的な意味をすべて、これらの教えの中で味わうことができるだろう。もちろんそれは、ミサと聖体の意味につながっている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

イエスとの出会いの場
 イエスの最後の晩餐における行為とことばは、そのまま、ミサの中心部で司祭によって祭儀的に現在化されます。司祭はパンを取って、「これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」と唱え、ぶどう酒の杯を取って、「これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」………(奉献文)と唱えます。
 ミサに参加している私たちは、司祭によって唱えられるこのことばを、司祭のことばとしてではなく、イエス・キリストご自身のことば、今この場におけるイエス・キリストのことばとして受け止めているのです。これが、現在化ということの意味です。

吉池好高 著『ミサの鑑賞──感謝の祭儀をささげるために』「第一部 ミサの成り立ち」本文より


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