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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年10月18日  年間第29主日  A年(緑)  
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい  (マタイ22・21より)

デナリオン銀貨を指さすイエス  
油彩画 ティツィアーノ作 
ドレスデン国立美術館 1516年

 福音朗読箇所マタイ22章15-21節は、表記の文言「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)で有名である。この教えの場面を描く絵については、ファリサイ派や弟子たちを前に教えを語るイエスの絵などが、中世の写本画の中にもあるが、それではこのメッセージの味わいを伝えるのに弱い。銀貨を話題にしているこの教えにとって象徴的な画像を表紙に掲げようとして、『聖書と典礼』ではデナリオン銀貨の遺物の写像を入れることもある一方で、デナリオン銀貨を指さすイエスの絵を今回のように掲げることもしている。きょうの表紙絵は16世紀のヴェネツィア派最大の巨匠と呼ばれ、近世の古典的油彩画法の創始者とされる画家ティツィアーノ(生没年1490頃~1576)の作品である。
 実はこの絵、元来の題は「貢(みつぎ)の銭(ぜに)」であり、直接の題材はマタイ福音書17章24-27節のエピソードである。この箇所が主日のミサで読まれることはないので、あまり知らない人も多いかもしれない。マタイ17章はイエスの変容の出来事(1 -13節)、悪霊に取りつかれた子をいやす出来事(14-20節)に続いてイエスの受難予告があり(22-23 節)、これに続いて語られる(新共同訳の見出しは「神殿税を納める」)24-27節のあらましはこうである。
 イエスたち一行がカファルナウムに来たときに神殿税を集める人々がペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」(24節)と聞くと、ペトロは「納めます」(25節)と答える。家に入ってから、ペトロはイエスから質問される。「地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」(25節)。ペトロが「ほかの人々からです」(26節)と答えると、イエスが次のように言う。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせいないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」(26-27節)という話である。
 なかなかわかりにくい話である。しかも、このエピソードはマタイ福音書にしかないものであるため、他の福音書との比較検討もしにくいが、それでも用語の分析からもともとの伝承と、それをマタイがまとめる段階での意図が重なり合っているという分析がされている。『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』(日本基督教団出版局 1991年 116 ページ) によると、神殿税という地上における税に対して、イエスや弟子たちも義務づけられているかという問題がある。そして、ペトロが答えるように無条件に「納める」という立場なのではなく、イエスの教えは(地上の王とその子どもたちのたとえを含んでいてわかりにくいが、ともかく)「納めなくてもよい」という自由を示している。そして一種の奇跡のように、最初に釣れた魚の口から見つかる銀貨を納めなさいという話になる。ティツィアーノの絵はこの見つかった銀貨をペトロに指し示しているイエスの姿を描くものであろう。
 この話は、やはりきょうの福音朗読箇所マタイ福音書22章15-21節の内容と通じるものがあると、その注解書でも指摘されている。イエスたちは地上の権威に基づく税に対して無条件に隷属するものではなく、根本的には神の子としての自由に生きるものであるということである。「神のものは神へ」という教えの意味もさまざまに解釈ができる広がりがあるのと同様に、17章のこのエピソードでも、神殿税という律法に縛られ、隷属するものではないが、そこに含まれる神のためにという点について自由に対応することができるという道が示されているということである。17章の神殿税に関するエピソードには、初期の教会のユダヤ人キリスト者の神殿税に対する悩みが反映されているともいう。同時に22章15-21節も、皇帝の権威への対応に苦慮する初期のキリスト者の苦悩が反映されているだろう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスのことばは、その中でまさしく道を照らす光であったことだろう。それは現代の我々にとってもそうである。
 ティツィアーノの描く「貢の銭」の絵をきょうの福音の参照画像としたことによって、思いがけなく、マタイ17章24-27節の「神殿税」のエピソードを「皇帝への税金」に関する教えと照らし合わせることになった。この二つの話を併せて味わい、現代世界という我々の時代の“皇帝”や“地上の王たち”のことを考えながら、信仰の道を黙想していくことにも意味があるにちがいない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 はじめに
 人間の体の生存にとり、もっとも不可欠なものは衣食住である。同じく人間の精神にとり、もっとも大切なものは自由である。なかでも宗教は、精神の中核をなすものだけに、宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる。
 ここでは、近代日本において、昨日まで人格の否定に苦しんだ人々の歴史を、特にキリスト教の歴史を手がかりに取り上げたい。信教の自由を妨げた要因を探り、未来のよりよき生活に生かすことを目指したい。

鈴木範久 著『信教自由の事件史――日本のキリスト教をめぐって』「はじめに」本文より


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