2020年11月15日 年間第33主日 A年(緑) |
「お前は、少しのものに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ」(福音朗読主題句 マタイ25・21、23参照) キリスト イコン キプロス ニコシアのビザンティン美術館 12世紀末 きょうの福音朗読箇所は、有名なタラントンのたとえのところ、マタイ25章14-30節である。このようなたとえを含む物語を具象化する絵画はなかなかない。表紙には、この教えを告げる方としてキリストの姿を仰ぐべきイコンを掲げている。これが必ずしも苦肉の策ではないことを最後に明らかにしよう。 タラントンのたとえはマタイ25章の位置づけとしては、来週の「王であるキリスト」の主日に読まれるマタイ25章31-46節の直前で語られる内容であり、終末に向けて現在をどう生きるかを問いかけている教えの一つである。それぞれの力に応じて(マタイ25・15参照)与えられている才能(タレント=タラントンから来る言葉)を機敏に役立たせながら生きていくことを推奨するところに物語の妙味がある。 話の展開としては、初めに5タラントンを預かった者の態度、次に2タラントンを預かった者への称賛があり、最後に1タラントン預かった者が地の中に隠していたことが非難されることになるので、聞き手はどうしても最後の者のような態度に自分の姿があるのではないかと思わされてしまう。そこが大きな問いかけとなっていき、話を逆展開で読んでいくときに、預かったタラントンを生かして倍に増やした行為への肯定的な勧めが隠されていることに気がつくような仕掛けになっている。どちらかの側から見ていくかで、我々の生き方が写し出されてくる。タラントンを生かさなかった者への激しいことばは、逆にそれを生かす生き方への積極的な勧めと同時に、一人ひとりに神から与えられているものの意味深さを気づかせる。 このことがキリストの教えに従う生き方、たえず父である神を意識し、その前に進み出る人間の生き方になる。主キリストを仰ぐことは、恐怖におののいて萎縮することではなく、神から与えられているもの、主キリストから派遣されている使命を素直に自覚する生き方である。むしろ、そこに知恵の働く場があるというべきではないだろうか。預かっているもの(それぞれの持ち味、タレント)は、自分の側から見るだけでは生かしようがなく、神の前にへりくだり、そのまなざしにゆだねたとき、それの生かし所も見えてくるのではないだろうか。 きょうの第1朗読が珍しく箴言であり(31・10-13, 19-20, 30-31)、そこには「主を畏れる女」(30節)の甲斐甲斐しく働く姿が浮かび上がる。箴言は「主を畏れることは知恵の初め」(9・10)という精神に立っている教えの書であり、先週の第1朗読ともに「知恵文学」、知恵として神のことばを語るものの一つである。タラントンのたとえは、まさしく、主を畏れること、主が来られることを常に意識して備える生き方の呼びかけであり、その意味で神の知恵に応える人間の知恵ある生き方を呼びかけているものといえる。我々にとって、どの時も主に向かう時である。そこにあるもの、自分の中にも、身の周りにもそれを見いだしていく生き方こそ知恵ある生き方、神からいただく恵みにふさわしい生き方だということになる。 このような理由で、表紙には威厳ある主キリストのイコンを掲げ、その前で一人ひとりが自身にも目を向ける糸口としたのである。威厳がありつつも、人を圧迫するようなものは一切なく、人の心を見通すかのようなまなざしと、底知れなく深い心情をたたえている表情がいつまでも我々の心に深く語りかけてくる。 このようなキリストを仰ぐイコンは、第2朗読箇所である一テサニロケ書5章1-6節の「主の日は来る」(5・2)ことの意識とも響き合うのではないか。「目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5・6)というメッセージもさらにつながってくる。「身を慎む」ということが消極的な態度ではなく、目を覚ましていて、主を待ち、すべてのよい機会を神のために生かしていくことだと考えてもよいだろう。「光の子、昼の子」(5・5)であることの自覚が、おのずとそれにふさわしい態度や生き方を切り開かせてくれるにちがいない。 |