2020年11月29日 待降節第1主日 B年(紫) |
わたしたちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる(第二朗読主題句 一コリント1・7参照) 荘厳のキリスト ゲロの聖書写本挿絵 ドイツ ダルムシュタット ヘッセン州立図書館 10世紀半ば 「荘厳のキリスト」と訳される画題、「マイェスタス・ドミニ」、威光に満ちた主というのが原題で、中世前期の写本画や浮き彫りに頻繁に登場する。終末における主の来臨を思い描く図といえるもので、きょうの福音朗読箇所マルコ13章33-37節との関連でいえばその13章24-27節にあたる。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(並行箇所マタイ24・29-31 、ルカ21・25-28 も参照)。 「大いなる力と栄光を帯びて」というところが荘厳のキリストを描く際の玉座のイメージの源泉となっている。作品のそれぞれが固有のデザインと文様をもっているが、一般にこの画題に付き物なのは、四福音記者の象徴である。この絵では、キリストの頭上に「鷲」(ヨハネ)、向かって右に「ライオン」(マルコ)、向かって左に「雄牛」(ルカ)、そして下に「人間」(マタイ)が配置されている。この生き物の象徴の典拠は直接には黙示録4章7節である(そこでは、四つの生き物にはそれぞれ六つの翼がある)。その背景には、エゼキエル書1章4-14節(ここでは四つの生き物はそれぞれの四つの翼がある)があり、さらには六つの翼をもち、神を賛美するセラフィムに関するイザヤ書6章2-3節も参考にされる。絵の中では通例、これらの福音記者の象徴は二つの翼を有する。 これらを基本要素としつつ、左手に神のことばを象徴する書を持ち、右手で祝福のしるしを示すキリストは、この絵の場合、真っ直ぐ前方を見つめ、絵を鑑賞する者に向かっている。白い顔の中のはっきりとした眼差しは強く我々の心に向かってくるだろう。この表情がもつメッセージ性は、生き物の翼の赤や、玉座のクッションの赤など、この絵の基調をなす赤の配色によって増幅されている感がある。 四角形の枠組みの中で、主の栄光を示す光背が正円であり、それがこの来臨による世界の完成を連想させる。形としてとても美しい。これらによって、選ばれた人々を「四方から呼び集める」主の来臨の普遍的な意味合い、「地の果てから天の果てまで」といわれるほどの全宇宙性が表現されている。緑が大地、地上の生命を思わせるとすれば、円形の中、主の玉座を囲む濃紺は天を思わせる。これらすべての配色と形の組み合わせによって、見事にキリストの神秘が表現されている。 このような主の姿のイメージは、きょうの第2 朗読箇所一コリント書1章3-9節を受けとめるのにふさわしい。キリスト者とは、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んで」(7節)生きる者であり、その到来のとき「わたしたちの主イエス・キリストの日」にその来臨を迎えるにふさわしい者となるよう、主が「しっかり支えて」「非のうちどころのない者にしてくださいます」(8節参照)と信じて生きるのである。 そのような、主の来臨への不断の準備を呼びかけるのが、きょうの福音朗読箇所マルコ13章33-37 節である。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(33節)という呼びかけは、われわれの日常生活に、きわめて身近に問いかけてくる。それは、生活の中からの不断の祈りの呼びかけであると受けとめることができるが、さらにもっと強い意味で、日々の典礼生活、すなわち主日や週日のミサ、また聖務日課である「教会の祈り」という典礼を柱に営まれる信仰生活の意味そのものであることがわかる。 荘厳のキリストとは、集会祈願の結び「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリスト」にほかならず、また、感謝の賛歌「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ。天のいと高きところにホザンナ。ほむべきかな、主の名によって来たる者。天のいと高きところにホザンナ」をもって賛美される方にほかならない。主の祈りに続く祈り(副文)で、「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」「国と力と栄光は限りなくあなたのもの」と祈るときの”待ち望む主”そのものである。中世固有の画題として知られる「荘厳のキリスト」は、実は、典礼のキリストの姿として、われわれにとっていつも身近なキリストである。 |