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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年12月6日  待降節第2主日  B年(紫)  
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1・3より)

洗礼者ヨハネ   
ロシア・イコン   
モスクワ トレチャコーフ美術館 18世紀

 待降節第2主日と第3主日の福音朗読で、クローズアップされるのは洗礼者ヨハネである。待降節第2主日では、どの年もそれぞれの福音書から洗礼者ヨハネが人々の前に登場する場面が読まれる。B年の今年は、マルコ福音書の冒頭1章1-8節が朗読箇所となっており、そこで次のように告げられる。(預言者イザヤの書に書いてある)「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民」が皆、彼のもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けた(5節参照)と述べられ、その登場と活動が画期的なものであったことが印象づけられる。その風体がまた際立っている。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(6節)とある。ここには預言者エリヤの姿が重なっている(列王記下1・8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」参照)。表紙絵のロシア・イコンは、そのように登場した洗礼者ヨハネの姿を真正面から描き出している。髪も髭も伸び放題で整えられていない。はだしである。服装も粗野なものであることが下衣の右袖のあたりからうかがわれる。上衣は毛衣というふうには描かれていないが地味なイメージでくるまれている。イコンの伝統では、荒れ野の隠遁修行者の風体でイメージされているという。
 しかし、このヨハネの姿でなによりも目を引くのは、大きな二つの翼ではないだろうか。イコンでは13世紀以降、このように有翼の姿で描かれる伝統が生まれる。これは、天使の翼と同じ意味であり、その典拠がマルコ1章2節に引用されている預言である。マルコでは預言者イザヤの書として紹介されているが、本当にイザヤ書からの引用なのは3節「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ40・3参照)であって、2節の引用「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」は、実際にはマラキ書3章1節から来る。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」である。この「使者」という言葉から、天使(ギリシア語のアンゲロスも元々も「使者」「御使い」である)を描くときの属性表象として「翼」がヨハネにも付けられて描かれることになっている。このイエスの道を前もって備える者というヨハネ観が東方で重視されていて、「洗礼者」というよりも「先駆者」「先備者」という尊称がつく。ちなみにマラキ書で考えられている主の道を整える者とはエリヤであった。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3・23)とある通りである。そして、洗礼者ヨハネやイエスが登場する時代には、救い主の訪れの先駆けとして、エリヤが再来すると信じられ、待望されていた。
 ヨハネの姿がエリヤのようであったことにはこのような背景があり、まさしく、イエス自身も、変容の出来事の直後に、まず来るといわれていた「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」(マルコ9・13)とヨハネのことを念頭に語っている。ヨハネがこのように、有翼の御使いとしてイメージされる背景には、旧約の預言で告げられたことが今や実現され始めるという救いの歴史のクライマックスに近づこうとする緊張感がみなぎっている。
 もう一つ、このイコンの洗礼者ヨハネの特徴として、彼の右手が指し示す先にいるのが、器の中にいる子どもとしてのイエスである。降誕図で描かれる幼子イエスの姿は古来書かれているが、西方では中世後期から近世において「幼きイエス」への信心の高まりが見られる。イコンにおいても、聖母子像の豊かな伝統があるとともに洗礼者ヨハネの図でも何らかの形で、キリストを指し示すヨハネのしぐさがさまざまな形で描かれる。それがこの場合は、あたかも聖体容器の中にいる子どもとしてのイエスになっている。描き方はやや少年のようであるが、意味としては神の子イエスである。また東方正教会では端的に「神の小羊」として聖体のキリストを呼ぶ伝統があるが、その「小羊」イメージと子どもとしてのイエスのイメージもまた重なっているものと思われる。ヨハネ福音書1章29節の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」というあかしがここで踏まえられていることになる。
 このようにこのイコンは、これだけでも多くの聖書の箇所を踏まえ、救い主の訪れを準備し、イエスこそ救い主であるとあかしした洗礼者ヨハネを表現している。背景には、ヨハネとイエスにまつわる出来事のいくつかの場面が描かれているが、細かくて確認はしにくい。ただ、ヨハネの(向かって)右側、宣教のことばを象徴する巻物を広げているすぐ近くに川が描かれており、洗礼の場面であるとわかる。
 待降節第2主日は、このように、将来における救い主の到来を待ち望む意識を高めた待降節第1主日の心をもって、洗礼者ヨハネの登場を想起しつつ、神の子の第一の来臨に心を向けていく。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

王的な支配とその領域
 ルカやマルコは「天の国」をまったく用いず、もっぱら「神の国」と表現し、マタイは「神の国」を避けて、「天の国」と言い換える傾向を強く持っていることになる。マタイが「神」に代えて「天」を使うのは、当時のユダヤ世界では「神」を口にするのを避け、「天」という婉曲表現を好むようになっていたからである。


雨宮 慧 著『聖書に聞く』「15 『天の国』と『神の国』」本文より

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