2020年12月25日 主の降誕 (夜半のミサ) (白) |
今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった (福音朗読主題句 ルカ2・11より) 聖夜 パステル画 三牧樺ず子 (長崎教区) 降誕の夜を描く、現代作家三牧樺ず子さんの作品は、暗がりの中を照らす光の効果に目を惹かれる。ヨセフが掲げる明かり(燃える油の器)のもとに、輝くばかりの白い衣に包まれた幼子、この子を優しく抱き抱えるマリアの姿が美しい。一般にイメージされる飼い葉桶の小屋ではないが、貧しく慎ましい住まいの中の聖家族の光景である。幼子は、そのまっすぐな姿勢、そして「復活」を象徴する白い色の衣が幼子の神性を輝かせて余りある。他方で、現代における一人の人間の誕生の環境、その家族のありようにも思いを馳せさせてくれる。その写実的な描写を含む絵画とともに、主の降誕・夜半のミサの聖書朗読と祈願を味わってみたい。 この日の集会祈願はローマ・ミサ典礼書にある伝統的なものである。「聖なる父よ、あなたはこの神聖な夜を、まことの光キリストによって照らしてくださいました。やみに輝く光を見たわたしたちが、その喜びを永遠に歌うことができますように」。まさしく「神聖な夜」、聖夜ともいわれるように「夜」という時が聖化された出来事が主の降誕でもある。この絵でも、光の空間とともに、その周りを支配する夜の闇も印象づけられる。降誕の出来事を喜び祝う前提でもあり、背景でもある「夜」というものの意味合いを、ここで考えてみることが大切になるかもしれない。 スイッチ一つで照明を利用できる現代の我々は、夜の暗闇や静寂が縁遠くなっている。しかし、夜の闇は、長い間、人類にとって、希望の見えない苦悩と忍耐の状況を示すものでもあったに違いない。第1朗読イザヤ書9章1-3、5-6節冒頭の文言にある「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」(1節)と告げられる人々の状況がそれにあたる。同時に、夜は、この世のものが見えなくなる時であり、そのことによって、人が神の現存の前に一人立つ時でもある。聖なるものの現れ、その前に感じる畏怖(きょうの答唱詩編=詩編96・9参照)を覚える時でもある。このような夜のもつ意味合いは、主の降誕の出来事によって、さらに、その極みに至ったといえるのではないだろうか。 ある夜、ベツレヘムの貧しい家族が主の栄光に照らされる時、救い主の誕生が告げられた時となる。降誕の知らせを受けたときの喜びは、夜を夜として体験したときにこそ、いっそう大きく、深いものとなるのだろう。第2朗読箇所のテトス書(2・11-14)が告げるように、その夜、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」た。この夜は、また十字架上で死んだイエスが復活に至るときにくぐったあの夜、復活を待ち、迎える夜とも重なる。というよりも、徹底して、夜の闇、死の陰を通り抜けていく主イエスの復活に至る過越の夜を、この降誕の夜は予告している。 降誕と過越のつながり、幼子が死んで復活する主にほかならないことが、この降誕の出来事の核となる意味合いである。主キリストの受難と復活への道も、この絵の中の白い衣をまとう幼子の姿に暗示されているといえる。そこから溢れ出てくる希望と喜びを、光の空間の温かさのうちに味わうことができる。 そして、この幼子は単に可愛い赤ん坊というだけでなく、イザヤ書が告げるように「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方である(イザヤ9・5参照)。福音朗読箇所であるルカ2章1-14節の冒頭の「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(2・1)と関連づけて考えると、ひときわ現実味を帯びてくる。地上の帝国の権威が強く示される状況の中で、新しい「平和の君」がベツレヘムの貧しい家に生まれたのである。幼子を見守るマリアとヨセフ、この聖なる夜の家族は、神の訪れによって聖化された家族となり、新しい人類の始まりともなる。 神の子を迎えた新しい人類の希望と喜びをこの絵の中の温かな光のうちに味わい、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活する」(テトス2・12)人でありうるよう、なれるよう願い、神の「御心に適う人」に約束される平和がこの地にあまねく行き渡ることを願いながら、幼子として生まれ、受難と復活への道を歩んだ主イエスの生涯全体を受けとめ、神の民としての歩みを新たにしていきたい。 |