2020年12月27日 聖家族 B年(白) |
わたしはこの目であなたの救いを見た(ルカ2・30より) 主の奉献 フレスコ画 フラ・アンジェリコ フィレンツェ サン・マルコ美術館 15世紀半ば B年の聖家族の福音朗読箇所は、ルカ2章22-40節(長い場合)で、主の奉献の祝日の福音と同じく、幼子イエスの神殿奉献の場面である。この出来事を描くフラ・アンジェリコの作品とともに、きょうの聖書朗読を味わっていこう。 ルカ福音書2章22-38節で述べられることの直接の背景は、律法(レビ12章。出エジプト13・11-16 も参照)にある。出産した母親が産後の清めの期間40日が過ぎたときにする献げ物の規定である(ルカ2・23-24参照)。しかし、ルカがこの出来事の中で、より大きく描くのは信仰篤い老人シメオンとの出会いである。 彼は、この幼子において、すべての人の救いが実現したことを見、神をたたえる。律法に従ってする奉献の行いはあくまで状況設定に過ぎず、その中でイエスに救い主を見たシメオンのあかしこそがこの箇所の主題である。このシメオンのあかしのことばは「シメオンの歌」と呼ばれて新約聖書中の代表的な賛歌の一つとなり、「教会の祈り」(聖務日課)では、寝る前の祈りで歌われる。一人ひとりの全生活が救いの訪れの確信と神への信頼のうちに一日を終えるというこの祈りを支えている。 この出来事を描く絵では、幼子イエスを抱くマリアにシメオンが手を伸ばしているものもあれば、すでにシメオンが幼子を抱き取っているものもある。この絵は後者である。幼子は十分に威厳をもって描かれている。王子のような尊厳といえようか。シメオンの表情は深い畏敬に満ちている。両手を前に差し出し、今、シメオンに渡したばかりというマリアの表情も緊張感にあふれている。神殿での奉献という以上に、それは神の御子に対する畏敬の念の表れであろう。アンジェリコの描法が醸し出す空間の厳かさは格別である。ルカの叙述では、ヨセフの名前への言及はないが、「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(ルカ2・22)と書かれているために、神殿奉献の絵ではヨセフが描かれるのも慣例となっており、この絵では、マリアの後ろに控える位置にいる。 前面にいる修道女と修道者は作者の時代に崇敬されていた聖人である。修道女のほうはわからないが、修道者は、アンジェリコの絵にしばしば登場するヴェローナのペトルス(1205頃 ~1252)である。殉教者ペトルスとも呼ばれるドミニコ会員で、説教師として名高く、教皇任命の異端審問官として精力的に説教活動を推し進めていた中、深い怨恨を買い、ミラノ近郊の森で頭を斧で割られて殉教する人物である。すぐに聖人としての崇敬が始まり、アンジェリコの絵では、頭が流血している容貌で描かれる。これらの聖人がイエスの出来事と現実の時代を結びつける存在として画面にも登場するところに、彼の描くキリスト生涯図の特徴がある。 さて、B年の聖家族の主日は、この神殿奉献の出来事を、第1朗読箇所(創世記15・1-6、21・1-3)と第2朗読(ヘブライ11・8、11-12、17-19)を通して、イスラエルの民の祖アブラハムとサラとイサクの出来事を想起させる。神の召命に従い歩み始めた夫妻、そして高齢にもかかわらず神に約束されたイサクを得た夫妻である彼らのうちに、まさしく信仰に生きる家族、神に召された家族の模範を感じ取れる。 なかでも「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」(ヘブライ11・17)と語られるアブラハムの奉献の姿勢(創世記22・1-18参照)は、幼子イエスを神殿にささげるマリアとヨセフの姿につながる。そして、イサクの犠牲も幼子イエスの神殿奉献も、究極的には、人類の贖いのための十字架上でのイエスの自己奉献を予告するものとなっている。そのイエスの受難と復活の出来事を通して、今、神殿でシメオンが幼子イエスに見た神の救い、この男子が「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」(ルカ2・32)であることが完全な実現に至る。シメオンがマリアに向かって言ったことば(ルカ2・33-35)、特に「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(35節)ということばは、まさしくイエスの受難とマリアの苦しみ、悲しみを予告しているのである。 幼子イエスの神殿奉献という出来事は、律法の枠を超えて、神のみ旨によって、全人類のためのイエス・キリストの奉献を予告しつつ、イエスを恵みとして受けた我々(人間)が自分自身を神にささげていく、一つの家族、神の家族となるように、という呼びかけと招きを含んでいる。このように考えていると、この絵の中の幼子を抱えるシメオンの姿が、我々自身のささやかないのちの奉献を受け入れてくれる、いつくしみ深い御父の姿のようにも思えてくる。 |