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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年01月10日  主の洗礼  B年(白)  
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者 (マルコ1・11より)

主の洗礼 
エグベルト朗読福音書挿絵 
ドイツ トリール市立図書館 980 年頃

 イエスの洗礼を描くエグベルト朗読福音書挿絵である。自然の背景もなく、イエスの胸から下を水が包むように描かれている。不思議な、幻想的ともいえる絵である。イエスが川の流れの中に立ちながら、洗礼の儀式を受けるときに、二位の天使が衣を抱えてイエスの洗礼のあとの事に奉仕している。これも後々までイコンの伝統によく残っていく表現となる。
 全体として、イエスの生涯の神秘を瞑想する中で見た光景のように思えてくる。くすんだ背景の色模様によるものかもしれない。身をかがめて洗礼を行う洗礼者ヨハネの姿の大きさが目を奪う。そして、イエスの描き方の不思議さ。顔を見ると十分に大人である。それにもかかわらず、身の丈は低い。この見た目のアンバランスさは、神の子が神の子でありつつ、へりくだり、人となられたことを強調しているものと考えなくてはならない。逆に言うとここで小さく描かれている人間イエスが、神の子であり、救い主であるということが、かなり誇張された鳩の表現によって示されることになる。すなわち、先達である洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、自らの活動を始めていったイエスのへりくだりである。その姿に対して、天から霊が降り、イエスは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)という天の声に呼ばれるところに感動がある。そのことがこの絵ではよく考えられて、具象化されている。
 その「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る」(マルコ1・10)という光景を、この絵では、見事に画面の中心軸に置いている。イエスの頭への鳩と霊を表す光線のようなものの放射が鮮やかである。こうした視覚的表現の中で、天からの声を聞くのがふさわしい。
 イエスによる洗礼がすでに聖霊を受ける出来事であり、神の子であることが現れる出来事である。東方教会ではこれがエピファネイア(神の子としての現れの出来事)と呼び、1月6日の主の公現に祭日は、この洗礼の出来事の神秘を祝うものとしている。ちなみに西方教会では、1月6日の主の公現の解説で先週述べたように、異邦人、すべての民族に救いの光が現れたこととして東方の学者たちのイエスの礼拝の出来事を祝いの内容とすることになり、主の洗礼はそれに続く主日(ないし、日本の場合主の公現が1月7日か8日に祝われる場合は次の月曜日)に祝われることになっている。いずれにしても、広い意味で、神の子の地上世界の現れを記念する主の降誕から、この主の洗礼までが一貫した季節、すなわち降誕節を構成している。
 この日の聖書朗読は、主の洗礼の出来事をさらに広げた視野から見させてくれる。
 第2朗読箇所の一ヨハネ書5章1-9節では、イエスがメシア(救い主)であること、神の子であることの信仰を呼びかけるとともに、それをあかしするのが“霊”と水と血であるといって、イエスの洗礼の出来事(水)と十字架上での死(血)、そしてその生涯が一貫して“霊”に導かれていたことを思い起こさせている。このことを思うとき、絵の中のイエスの裸の体は、十字架にかけられたイエスの体でもあり、イエスの十字架上での死をも示している。すると、聖霊の降臨を示す鳩や、天使が用意している衣などが、イエスの復活を予示させるものに思えてくる。イエスの小さく描かれた体は、十字架の死に至るまでのへりくだりを教えてくれるものと言えるかもしれない。
 さらに、第1朗読箇所はイザヤ55章1-11節で、全体として大変長いものとなっている。全体として神の思い、その計画の計りがたさが明確に告げられ、必ずその計画を実現する神の意志に対する回心と信頼を呼びかけている。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ55・3)、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(同6節)。力強い呼びかけである。このような神の声がイエスの上に響いた天からの声とも重なる。実際、イエスの変容の場面では、雲の中から声が響き、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)と告げられる。洗礼のときのイエスの上に響く声にも、神の子としての姿を現させた神の「聞け」 「聞き従え」という心が含まれていたのであろう。
 イエスの洗礼の出来事は単にイエスにとっての出来事というだけでなく、すべての人にとっての出来事となる。この出来事を通して、「わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ55・3)という神のメッセージが現代の我々に迫ってくる。主の洗礼は、福音宣教の始まりにあった出来事を思い起こす日であると同時に、キリスト者すべてが、自分(たち)に与えられている召命を思い起こす日でもあると言えるだろう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

「キリストによらずには誰も救われない」
 さて、次に「イエス・キリストは神と人との唯一の仲介者であり、キリストによらずには誰も救われない」という命題についてです。
 キリスト教信者でない人も救われるとしたら、彼らもキリストによって救われるのでしょうか。この問題を考えてみましょう。


岡田武夫 著『希望のしるし――旅路の支え、励まし、喜び』「第5章 宗教と寛容」本文より

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