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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年01月17日  年間第2主日  B年(緑)  
「わたしたちはメシアに出会った」(ヨハネ1・41より)

使徒アンデレ 
『オスコット詩篇』挿絵  
ロンドン 大英博物館 1270年頃

 きょうの福音朗読箇所(ヨハネ1・35-42)における主人公は、洗礼者ヨハネでもシモン・ペトロでもなく、ペトロの兄弟アンデレである(このコーナーでは以前「兄」と記したことがあったが、「兄弟」という以上のことは原語からはわからず、事典類を見ても「兄弟」と記しているものがほとんどのため、ここでも「兄弟」と記すことにする)。来週の福音朗読箇所に含まれるマルコ1章16節では、端的に「シモンとシモンの兄弟アンデレ」と言及されて、イエスに呼ばれて最初の弟子となるが、注目すべきことに、ヨハネ福音書のきょうの箇所では、初めは洗礼者ヨハネの弟子であり、そのヨハネの証言を聞いて、イエスの弟子に転じ、ペトロに「メシアに出会った」と告げる人となる。
 伝承によれば、聖霊降臨後、黒海北岸沿いのスキティア(スキタイの居住地)地方やギリシア各地で宣教をした後、ペロポネソス半島のパトラスに至る。そこで、不治の病にかかっていた同市の総督の妻をいやし、改宗に導くが、それがもとで総督の怒りを買い、鞭打ちの刑に処された。最期は×形の十字架に縄で逆さに縛りつけられ、3日後に絶命したという。この伝承から×形十字架がアンデレ十字架と呼ばれるようになる。アンデレの殉教を描く作品の中では、一般的な十字架(ラテン十字架)の上に描くものもあるが、やはり、×形十字架がアンデレのもっとも特徴的な付属要素(アトリビュート)となっていく。表紙作品の場合も、十字架は図案に近いが、それでも金の色彩にはアンデレの殉教に対する称賛と崇敬の念が込められているようである。
 「アンデレ」(ギリシア語アンドレイス)とは、勇敢・男らしいという意味があり、ペトロと同じく漁師であった彼の人柄を伝えているといえるかもしれない。髭を生やし、烈しい意志をもった男性的な姿は、この挿絵もよく表している。そして、眼光が極めて鋭い。
 とくに考えてみたいのは、ヨハネ福音書の朗読箇所において印象が深い「見る」ことの重みである。洗礼者ヨハネが歩いておられるイエスを「見つめて、『見よ、神の小羊だ』」(ヨハネ1・36)と言う。イエスは、ヨハネの二人の弟子が自分に「従って来るのを見て、『何を求めているのか』」(38節)と聞く。どこに泊まっているのかとイエスに聞く弟子たちに対して、イエスは「『来なさい。そうすれば分かる』」(39節)と言う。そこで、弟子たちは「ついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た」(同)。二人の弟子のうち、一人がアンデレで、彼は兄弟シモンに「わたしたちはメシアに出会った」(41節参照)と言う。アンデレに連れられてシモンがイエスのところに行くと、「イエスは彼を見つめて」(42節)、ケファ(岩)という名を与える。
 このような次第で、「見る」の展開を追っていくだけでも、イエスの現れ、イエスとの出会いの緊張感が伝わってくる。ここでの「見る」はただ日常的な感覚の意味でだれそれを見ることではなく、イエスにおいて神を「見る」こと、神と出会うことを表現する。そしてイエスのうちにまさしく神を見る者は、そのことを「見よ」(36節)と言ってあかしする。人間的な意味での「見る」を超えていくような「見る」ことが、繰り返し語られるうちに深まっていくのである。
 もちろん、ここで「聞いて従う」ということが印象深く記されていることも忘れてはならない。ヨハネの二人の弟子が「見よ、神の小羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従ったというところである(1・37)。おそらく、この日の朗読配分は、この「聞いて従う」という意味での召命への応答に注意を向けさせようとしているのだろう。それは、第1朗読のサムエル記の朗読(サムエル上3・3b-10,19) が示している。主である神がたびたび呼びかけることに対して、ついに少年サムエルは「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております」(同3・10)と答える。その姿はイエスのことばに従う弟子たちを予告するものとして考えてよいだろう。しかし、呼び声のうちに神のことばを聞くことも、見える姿のうちに神を見ることも、同じように神に心を開かれる人によって、はじめてなし得ることなのだろう。
 表紙絵のアンデレの姿からも、その鋭い視線の先に、神の御子イエス・キリストがいることを我々もともに感じたいものである。そして、福音書ではわずかしか登場しないアンデレという人の、イエスに人を出会わせていく役割をも深く考えたい。迷いや雑念の感じられない、イエスに対する信仰心の明らかさ、潔さ、質素さ……。自分自身を表には出さず、イエスとさまざまな人々とのかかわりが生まれるために奉仕していったにちがいない、その姿には、今日の我々に呼びかけられている使徒的な働きを何か示唆するものがあるかもしれない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

22 神の小羊

 イスラエルは羊の多い国なので、聖書では、羊が例にあげられていることが少なくありません。人間の神に対する信頼や依頼の心のシンボルとして、羊がしばしば登場します。
 羊よりさらに無力なのが小羊です。動物の中で最もかよわい生き物とされるのは、なにもできないからでしょう。
 イザヤ53・7では、来るべき救い主の苦しみの姿を、「屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」と表しています。


ミシェル・クリスチャン 著『聖書のシンボル50』「22 神の小羊」本文より

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『聖書と典礼』年間第2主日(2021年1月17日)号コラム「『キリスト教一致祈禱週間』は何のため?」

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