2021年03月07日 四旬節第3主日 B年(紫) |
律法はモーセを通して与えられた (第一朗読主題句 ヨハネ1・17参照) 律法の板を受けるモーセ モザイク シナイ山 ハギア・エタテリーニ修道院聖堂 6 世紀半ば きょうの第1朗読箇所は有名な十戒を含む出エジプト記20章1-17節である。これにちなみ、モーセが律法の板を受けるモザイクを鑑賞する。 シナイ山の雰囲気として描かれているのは、重々しく暗い岩山である。モーセは神から律法を授かるのだが、その神を表現するのは、古代のキリスト教美術によく登場する神の右手である。手が突き出されている部分は神の栄光を示す雲。神はあくまで神秘であり、自らを表しつつも、その実体は人の目には覆い隠されているという逆説的なあり方にちなむものである。じっさい、出エジプト19章では、シナイ山に着いたモーセとイスラエルの人々に対する呼びかけの中で、モーセと対話するときに「雲」が登場する。「モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、主はモーセに言われた。『見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである」(出エジプト19・8-9)。19章からモーセは、文字通り、主である神と民の間を、すなわち山の上と麓を何度も昇り降りして、いよいよ20章でその神のことばである十戒を告げるのである。 このモザイクのモーセも神の手から渡される板(十戒や律法の象徴)を恭しく受け取っている。その顔はしかし、神のほうを向いてはおらず、むしろ目を伏せている。畏敬の表情といえるだろうか。そしてその裸足の姿は、出エジプト3 章で神の山ホレブ(シナイ山と同じと考えられている)で、柴の間からモーセに呼びかけた神が「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と言ったことを想起させる(出エジプト3・5参照)。すなわち、ここではモーセの召命の出来事もしっかりと踏まえられた上で、今、律法を渡され、それを民に伝えるという、モーセの仲介者としての役割が強調されていることになる。 四旬節第3主日の第1朗読は、すべて出エジプトからモーセに関する箇所が読まれる。A年は出エジプト記17章3-7節で、荒れ野を旅するイスラエルの民が喉の渇きを訴えて不平を述べたところ、モーセが神のことばに従って、ホレブの岩を打つと水が出て、その渇きをいやしたという場面である。またC年は、上で一部引用したところを含む出エジプト記3章1-8a、13-15節のモーセの召命の場面である。このような四旬節第3主日は、第1朗読に関していえば、“モーセ記念日”とさえいえる。そして重要なのは、それぞれがイエスの出来事、新約の神の民にとっての救いの出来事の予型(前表)が示されていることである。A年は、洗礼の水の予型、そしてB年で記念される、神からの律法の授与はキリストの復活によって決定的に示される神の愛の予型、C年は、救いを呼び求める民の声に神の姿が示される。 そして、これらに共通しているのが神の山としてのホレブないしシナイであり、その神の顕現の場として、神の聖性を全面的に帯びている様子である。特にこのことは、きょうのB年の朗読を味わうために重要な観点であろう。それは、十戒の意味を考える上でも重要である。その3節から12節までは、イスラエルの民をエジプトへの隷属から導き出した主以外に神はない、他のものを神としてはならない、そして像を造ってもならない、主の名をみだりに唱えてはならない、主の創造のみわざに基づく安息日を聖別しなくてはならないというように、主である神の真実性、唯一性、そして聖性がなによりも律法の根本にあることが示されている。13-17節で語られる人倫に関する掟(父母を敬うこと、殺人・姦淫・盗み・偽証・隣人の家の所望の禁止)も、その根源は唯一の神を真に信じ、その聖性を恐れ敬うことが前提となっている。まことの神を信じ、畏れ、敬う民のあり方はこのように定められているのだ、ということである。 人倫のすべては、神秘である神から定めや掟を受け取ってこそ始まるというこの関係性が、今、このモザイクに描かれる、神とモーセの関係に集約されているとも言える。 同時に、このモーセの姿勢そのものがイエス・キリストの予型であることを考えなくてはならない。十字架のイエスは、我々に神から渡されている新しい愛の掟の“板”であり、十字架の上で体全体が裸にされ、目を伏せているイエスは、このモーセの姿の極限でもある。十字架のイエスの姿は、神の聖性の全面的な現れである神の栄光を前にした、人間のいのちの極みであるに違いない。きょうの福音朗読箇所ヨハネ2 章13-25節の内容をこの関連で深く味わうことができる。エルサレムの神殿があかししてきた神の聖性を、イエスは十字架で死に、復活することになる、自らのいのち(体)のうちに引き取っていくのである。 このことを黙想しつつ、「まことにとうとく、すべての聖性の源である父」(第2奉献文より)への思いを深めていくことが、我々の四旬節の大きな意味の一つであるにちがいない。 |