本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年03月28日  受難の主日(枝の主日)  B年(赤)  
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか (マルコ15・34より)

十字架への道 
北フランスで作られた『時課の書』 
マドリード国立図書館 13世紀

 受難の主日の表紙にはエルサレム入城の図か十字架上のイエスの図を掲載することが多いが、今回は、主の受難の経過に沿った四つの絵が組み合わさった時課の書(聖務日課書)の挿絵を掲げている。
 受難物語という緊張感にあふれた一つのまとまった伝承は、福音書を作り出す核となっただけでなく、キリスト教美術の中に劇的な描写の絵を生み出していった。この「時課の書」の4つの絵は、ヨハネ福音書(聖金曜日の受難朗読箇所)に沿っている。左上の逮捕の場面と、左下のイエスを十字架に磔にしている場面は、共観福音書との違いはあまりわからないが、右上の図では、イエスが自ら十字架を背負っており(ヨハネ19・17参照)、右下では十字架のイエスの脇に「母」と「愛する弟子」、すなわちマリアと使徒ヨハネ(同19・26-27参照)が描かれているところがヨハネ福音書的なのである。
 このように、いわばコマ分けされた十字架への道行きを鑑賞することで、受難の主日および聖金曜日の受難朗読を幅広く味わうきっかけにもしたい。「幅広く」というのは、本来、これらの受難朗読の箇所は、もっと長いものだからである。A年=マタイ26章14節~27章66節、B年=マルコ14章1節~15章47節、C年=ルカ22章14節~23章56節、聖金曜日の受難朗読もヨハネ18章1節~19章42節なのである。オリエンス宗教研究所発行の『聖書と典礼』や『聖週間の典礼』では、紙面の関係でいつも短い場合の朗読箇所しか掲載されないので、それだけと思われるかもしれないが、本来の受難朗読は長い場合を想定している。その内容は、(B年のマルコに沿うなら)、「イエスを殺す計略」「ベタニアで香油を注がれる」「ユダ、裏切りを企てる」「過越の食事をする」「主の晩餐」「ペトロの離反を予告する」「ゲツセマネで祈る」「裏切られ、逮捕される」「一人の若者、逃げる」「最高法院で裁判を受ける」「ペトロ、イエスを知らないという」「ピラトから尋問される」「死刑の判決を受ける」「兵士から侮辱される」「十字架につけられる」「イエスの死」「墓に葬られる」までを含む。短い場合は、「最高法院で裁判を受ける」からである。
 これらの見出し(新共同訳による)を眺めても、イエスの受難の進展に、ユダの裏切り、ペトロの離反など、弟子たちの背信が絡んでいる。絵画描写でも、この観点が重要となっていることは、きょうのこの4場面の連続挿絵でもわかる。ユダヤの裏切りの結果としての逮捕から、広い意味での十字架の道行き、受難の歩みが始まっているのである。そして、この四つの場面におけるイエスの姿の示され方に注目してみたい。人々の中に埋もれるかのように囲まれて逮捕される姿、十字架を自ら引き受けて担ぎ、歩んでいく姿、十字架の上に横たえられつつ、そこに磔にされる姿、十字架ですでに息を引き取り、生気なく下がる姿--ここでは、4場面だけだが、これを手がかりに、受難朗読の長い場合の朗読のほう、B年であれば、マルコ14章~15章全体を味わうことが大切である。
 そのように福音書を読みつつ絵を鑑賞すると、絵画ならではの特徴づけに出会う。先週においては赤・青・紫が印象深かったが、きょうのこの絵では、イエスの体の白さがひときわ目立つのである。この白さの意味するところも深い。第2朗読箇所フィリピ2章6-11節が見事に語る「神の身分でありながら」(6節)の「神の身分」がその白さによって表現されていることを味わうことができる。その低く下がる細い身体は、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(7-9節)と響き合う。同時に、その白には既に復活の輝きがあるともいえる。それは、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(9節)ということに対応する。
 そして、このイエスの体の白は、この4つの場面に登場する他の人々の顔の色でもある。イエスの逮捕を目撃する人、十字架を担うイエスを見守る人、イエスを十字架につける人、そして十字架のイエスの死を嘆く人……これらの人々を含め、地上の人間は復活し、あらゆる名にまさる名を与えられることを知るとき、「イエス・キリストは主である」と公に宣言する“舌”、すなわち信仰を表明し、神をたたえる人となっていく可能性がある。イエスの姿の白さ(神なる姿)が人々の顔にも輝いているということは、だれもが信仰をもって神のみわざにこたえる人となりうるという、その可能性の象徴といえるのではないだろうか。
 我々も受難のイエスが想起されるこの日、イエスにこたえ、従う人となるよう招かれているのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ギリシャ語
 ヨハネ・クリゾストモスの典礼はアルメニア、アレキサンドリアにも影響を与えた。また同じ四世紀からエルサレムの教会が再興され、多くの巡礼者を集めるようになった。エルサレムの聖チリロが聖週間の典礼の父と言われるが、その典礼はエジェリアの巡礼記などによって紹介され、枝の行列や、聖金曜日の十字架の崇敬などがヨーロッパ全体に広がっていった。

国井健宏 著 『ミサを祝う――最後の晩餐から現在まで』「第三章 成長と固定化」 本文より

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL