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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年04月11日  復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年(白)  
信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ20・27より)

イエスとトマス            
モザイク 
イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀

 復活節第2主日には福音朗読として、毎年ヨハネ20章19-31節が読まれる。イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ち、平和を与え、聖霊を授ける。弟子たちの中でトマスだけが疑いを示す。その八日の後、つまり次の週の初めの日にまた、イエスが弟子たちの中に現れ、そしてそのトマスと対話する。そのとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20・25)と言ったトマスに対して、イエスが「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(同20・27)と答えるのである。このやりとりは、大変味わい深く、印象に残るものとして、絵画でも盛んに描かれ、「トマスの疑い」とか「トマスの不信」といった画題が付されている。
 このモンレアーレ大聖堂のモザイクは、復活したイエスの姿が青い衣をまとっているところも新鮮であると同時に、やや困惑したような表情のトマスが右手の人指し指をイエスが開いて見せる脇の部分に触れている様子を描いている。「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(ヨハネ20・27)というイエスのことばに対して、その通りにトマスが行ったように想像されているといえる。ここの描き方に関して、実はさまざまな作品例ごとに微妙に違うことは、この日の表紙絵解説でかねがね言及してきた。
 トマスをめぐる叙述全体(ヨハネ20・24-29節)において、実際には、イエスの手の釘跡も、脇腹の傷跡と並んで言及されているのだが、絵ではたいてい脇腹の傷跡のみに焦点が当てられる。そして、そこに向かってトマスがただ覗きこむだけのように描くものもあれば、手を伸ばしているだけのように描くものもある。ただし、意外なことに、実際にトマスがそうしたかどうかについて、福音書は言及していないのである。「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」にいうことばに、イエスは続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言う。これに対して、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答え、まさしく「信じる者」となるのである。あたかも「手を伸ばし、わき腹に入れなさい」は、「信じる者になりなさい」という意味と重なって召命の呼びかけだったのだと感じられるほどである。「わたしの主、わたしの神よ」というトマスのその答えは、まさしく信仰告白である。したがって、絵がトマスの行為(手を伸ばし、わき腹に入れようとする)を描いているとしても、そこで、主題となっているのは、イエスの呼びかけに素直に応えるトマスの信仰者としての姿ということにもなる。したがって、とても逆説的なのだが、主題としては、「トマスの疑い」どころか「トマスの信仰」ということになろう。
 トマスの感じた疑問は、人間だれしも、主の復活という神のみわざに対して、普通に感じるものなのではないだろうか。それ故にそのトマスが信仰へと招かれ、自ら主を告白する者となるというプロセスが、多くの人の信仰体験や信仰心に響いたことから、これほどまでに愛好される画題となったのであろう。
 それは、人がいかにして信仰者となっていくかの一つの典型的な姿として提示されているといえよう。直接、イエスとともに歩んできたペトロをはじめとする使徒たち、特別な出会いの体験をもったパウロのほか、そして、その後の世代の人々は皆「見ないのに信じる人」となるべく、イエスに呼ばれている。使徒のあとの世代のキリスト者の先陣を切っているのがトマスであるとしたら、そのきわめて素直に疑うような態度も信仰に向かっていくひたむきな熱意に感じられてくる。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・29)ということばは、彼のあとにイエスと出会うことになる人すべての人(我々も含む)へのイエスの祝福であり、招きである。ここにはまさしく「喜びの知らせ」、福音がある。
 さて、イエスとトマスのやりとりの場面ばかりに注目したが、この日の福音朗読箇所の週の初めの日(今の日曜日、主日)にイエスが弟子たちのところに来て真ん中に立ち、「平和」を告げ、息を吹きかけて(聖霊授与の表現)「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20・22)、罪のゆるしを命じるところが本来の主題ともいえる。このモザイク独特の、復活したイエスの青い衣から、聖霊の授与のニュアンスを最大限感じてもよいのではないだろうか。あたかも新しいいのちの扉を開けて現れてきているような姿である。その両側の壁が暗示する建物は、人間世界の象徴だとすれば、その限界を超えて、神の次元から立ち現れてきた姿ともとることができるし、逆説的には、神のいのちの世界、神の国の扉を開けて、我々を招いている姿ともいえる。すべての意味が、復活したキリストの颯爽(さっそう)とした姿のうちに感じられる。
「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」(第2朗読箇所より 一ヨハネ5・6)とある使徒の手紙のあかしも、ここでともに味わっておきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

すべてを共有していた
 すでに第一の要約の中で、特に「相互の交わり(コイノニア)」と言われているように、本日の第一朗読とその続き(4・32-35と36-37、5・1-10)のテーマは、財産の共有である。初代教会における財産の共有は、あくまで自発的なものであった。それは教団の会員全員が守るべき規則に定められ、違反の場合、罰則まであるクムラン教団の制度とはまったく異なる。


和田幹男 著『主日の聖書を読む――典礼暦に沿って【B年】』「復活節第二主日」本文より

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