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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年05月09日  復活節第6主日  B年(白)  
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15・13)

十字架のキリスト 
9世紀の典礼書 奉献文冒頭の挿絵 
パリ フランス国立図書館

  きょうの福音朗読箇所(ヨハネ15・9-17)で、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)と告げ、これを「わたしの掟」であるとしたうえで続いて「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と語る。愛の極致が自分の命を捨てる(ささげる)ことにあるというところに、「愛」ということばにイエスが託した意味が端的に告げられるところである。
 そのことばを、まさに十字架に磔にされている主のことばとして味わうという意味で、このような表紙絵作品を観賞したい。十字架のキリストを描くものとして我々になじみ深いのは、十字架上で苦しみながら死んでいるキリストの像であろう。それに対して、この絵のキリストは目を開いて生きている姿で描かれている。
 これは、キリスト教美術の中でも、大きな流れがあることでよく知られているのだが、古代末期から中世初期7、8世紀までのキリスト教芸術では、聖堂のモザイクであれ、福音書装飾であれ、荘厳のキリスト、勝利のキリストの図が基軸をなしていた一方で、もう一つの流れとして、十字架に磔にされているイエスを描く図が多く描かれるようになる。ただし、その場合、イエス・キリストは、傷つき、苦しみ死んでいく者としてではなく、8~9世紀のカロリング朝時代のこの作品が示すように、十字架上にあってもなお目を開け、生きているキリストを描くもののほうが主流であった。キリストのからだもまっすぐで、たしかに手と足には血が描かれているが、キリスト自身は、あたかも祝福を与えるかのような姿勢で描かれる。キリストの死と復活の神秘を、その両面から描こうとする意識がこのような(一見すると常識を超えた)描き方を生み出して、一つの伝統となっていったのであろう。十字架の背景にある植物文様も、輝かしく描かれ、十字架の上に描かれつつも、すでに復活者としての栄光の輝きを受けているように感じられる。
 十字架磔刑図の定型要素である太陽(ここでは左)と月は人の子の来臨の時の光景にちなむ。例えば、「太陽は暗くなり、月は光を放たず」(マタイ24・29)となったことで、逆に、この出来事の偉大さをあかしする要素となる。この作品では、擬人化された太陽と月が別の方向を静かに見つめ、黙想しているかのようである。
 この作品の興味深い点は、もう一つある。それは、描かれているのが典礼書(端的にミサ典礼書の意味)であり、その中で、奉献文の冒頭を飾る挿絵であることである。ローマ典礼のミサでは、奉献文は「ローマ・カノン(典文)」(Canon Romanus)と呼ばれる(現在のミサ典礼書にも第1奉献文として収められているもの)。そこから奉献文冒頭の挿絵は「カノン画」(カノン図)とも呼ばれる。
 その特徴は、奉献文冒頭の語句の頭文字が装飾的に組み込まれていることである。この絵でもイエスが架けられている青で彩られている十字架は、実は十字型ではなくT字型をしている。このTに始まり、イエスの体の(向かって)右下にはE IGITVRという文字が記されている(GI、TVは横に並んでいる。なおVはこの時代Uにあたる)。これを合わせると「Te igitur」(直訳「それゆえに、あなたに」)という語句になる。これは、この奉献文の最初の文章の冒頭の二語で、日本語版「ミサ典礼書」の第1奉献文の最初の文言で示すと、「いつくしみ深い父よ、御子わたしたちの主イエス・キリストによって、いまつつしんでお願いいたします」のうち、「いま〔あなたに〕お願いいたします」の「いま、〔あなたに〕」に当たる。
 このようにして、ミサにおいて祝われる神秘、特に奉献文によって記念され、現在化され、信仰宣言されるところのイエスの十字架上での奉献の神秘、死と復活の神秘(=過越の神秘)を、その冒頭の部分でイメージさせる役割を、「カノン画」はもっているのである。今後、十字架のイエスを描く絵画の発達する重要な場の一つとなっていき、今日でも踏襲されている。
 中世後期以降は、十字架のイエスに対するイメージも、人間のイエスの苦しみ(パッシオ)に注目がいき、それを共に味わう、共苦(コンパッシオ)の霊性が発展していくようになるため、生きたイエスを十字架の上に描くという表現様式は、我々には新鮮に映る。だが、この様式こそ、勝利のキリストと受難のキリストにバランスよく光を当てたものといえるかもしれない。ミサごとに我々は「主の死を思い、復活をたたえよう」と唱える。このようにして死と復活の神秘を、我々の信仰生活の根源にあるものとして確かめ、あかししているのがミサである。なによりも繰り返し、「わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」と告げて、我々が祈りをゆだねる大祭司キリストは、地上の十字架の上にありつつも天上の姿を示している、このような十字架のキリスト像に近いといえるのかもしれない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

三 この最も小さい者の一人
 このイエスという絶対他者にすべてを賭けることは、友のために命を捨てることを意味するのがキリスト教的愛(アガペー)なのである。使徒ヨハネはいう。
 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです(ヨハネの手紙一3・16)。
 キリストは「まことの神、まことの人」である、という「受肉の秘義」がキリスト教の根底にあるということは、「神の愛」と「人の愛」とが不可分の関係にあることを示す。
奥村一郎 著『奥村一郎選集──第1巻 慈悲と隣人愛』「第八章 禅とキリスト教における霊的修行」本文より

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