2021年05月30日 三位一体の主日 B年(白) |
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる (マタイ28・20より) 三位一体 ロシア ノブゴロド派イコン モスクワ トレチャコーフ美術館 14世紀 このロシア・イコンは、原題は「父性」ないし「父である神」ということで御父を主題とするもののようである。しかし、そこには当然に、御子と聖霊(鳩の象徴による)が描かれ、全体として聖三位一体の図像となっている。「御父の座における聖三位」という解説がされることもあるようだ。玉座にいる御父を座にして御子が少年のように描かれ、その御子がさらに鳩の象徴で描かれる聖霊を抱えているという、三重の座の重なりをもって聖三位一体が表現されている。 父である神が白髪の白衣の老人として描かれている背景にはダニエル書7章9節がある。「なお見ていると、王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎、その車輪は燃える火」。赤く描かれた玉座もここを典拠にしている。「白」は清さという意味で聖性の象徴であるとすれば、赤も浄化の火に通じ、その意味でやはり神の聖性、さらにその限りない力の象徴でもある。御父の姿自身は、全能者キリストを描くイコンのキリスト像とも同様である。左手に巻物を抱え、右手を祝福するかのように少し上げたしぐさをしている。逆にいうと、全能のキリストは、御子でありつつ御父との姿をも体現しているということができる。このような相互の一致は、御父の頭の後の光輪に十字架の模様が刻まれていることや、御父の両肩の上に小さくIC XCとイエス・キリストを示すモノグラム(文字記号)も記されていることにも示されている。このような工夫を通して、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1・18)ということばが意味深く味わわれよう。 御父の頭の両脇に描かれているのは、神の聖性をたたえるセラフィムである。イザヤ6章1-3節に登場しているセラフィムである(なお、その両脇の柱の上に描かれている人物は、このイコンの寄進者に関係した守護の聖人といわれる。また右下に描かれるのは、だれか関連のある使徒の一人ではないかと思われる)。セラフィムは、六つの翼をもち、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ6・3)と、天の座にいる主である神を賛美する。言うまでもなく、ミサの感謝の賛歌の源である。感謝の賛歌は、主である神に対するセラフィムの賛美を継承し、御父と御子である主イエス・キリストを賛美する歌として昇華したものといえる。また、ここに描かれる三位一体の姿は、集会祈願の長い結びの文言「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」とも関連する。御父と御子がともに永遠に生きて、被造物である天地万物を支え、配慮し、導いていること、そしてそれが聖霊による交わりの中で営まれているという信仰理解は、この聖画像と深く響き合っているのである。このことには、御子がしっかりと小さな両手で抱えている円にも関連する。灰色がかった青から中央の濃紺までの濃淡の差を持ったこの円は、天の奥行き、天の高み、神の次元の深さを想像させる。なによりも、小さいながらに、神の創造と支配の完全性を暗示するのである。そして、そこから聖霊(鳩)が飛び出してくる。 さて、三位一体の主日=B年の福音朗読はマタイ福音書の末尾28章16-20節。弟子たちがガリラヤで山に昇って復活したイエスと会い、そこで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19-20)と告げられ、派遣されるところである。直接「父と子と聖霊の名」が告げられるところから、三位一体のあかしの箇所として選ばれていると思われる。 ちなみに、マタイ福音書は、キリストの昇天も聖霊降臨も語ることはないが、この末尾の箇所で、復活者イエスが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)というところに、実質的に「昇天」の意味が語られているといえる。そして、最後のことば「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、使徒言行録が語る聖霊降臨、ヨハネ福音書20章22節が語る聖霊の授与に相当する。自らが世の終わりまで弟子たちと共にいるという意味で、聖霊の役割を語り尽くしているとも言えるからである。マタイ福音書は、イエスの誕生に関する預言「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1・23)を引用しつつ、イエスのことをすでに「神は我々と共におられる」ことを表すものと暗示していた。この考え方が「いつもあなたがたと共にいる」という最後のことばにまで貫かれている。「共にいる方」としてキリストをあかしするマタイ福音書は、同時に三位一体の神を「共にいてくださる」神としてあかししているともいえるのである。 |