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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年06月06日  キリストの聖体  B年(白)  
これはわたしの体である。これはわたしの血である(福音朗読主題句 マルコ14・22、24より)

最後の晩餐 
ドイツで作られた聖書写本 
スペイン マドリード王宮博物館 11世紀

 中世写本画の最盛期であるオットー朝時代の写本画である。特別な名前で紹介されておらず、ドイツではなくスペインの博物館所蔵というのも珍しい。
 構図の中心に大きく描かれたイエスの姿がある。その重みは両側の弟子たちを圧倒するほどである。その真正面を向いた顔、特に緊迫感のこもった目の力は、見る者を引きつける。最後の晩餐が行われた家や食卓の描き方は、古来、実に多様であるが、この絵の場合も、中世の貴族の館の一室のようである。
 最後の晩餐を描く図の中で、この絵がきわめて独特なのは、イエスがパンだけでなく、ぶどう酒の杯も弟子(この場合は右側の弟子)に渡しているところである。多くはパンを与えることで象徴させているが、ここでは、きょうの福音朗読箇所を考慮して、しっかりと杯を渡すという動作を描いている。イエスは、自分自身を完全に開いている。両方に手を差し伸べ、パンを(向かって)左の弟子に、杯を(向かって)右の弟子に与えながら、実際には、自分自身を弟子たちに与えているのである。その姿は、主としての尊厳にすでに満たされている(光輪・衣)。その顔は、我々に、ご自分の命を受けとめるよう促しているかのようである。
 最後の晩餐というと、我々には、きょうの福音朗読箇所マルコ14章12-16、22-26節の後半22-26節、いわゆる聖体の制定に関する場面という印象が強い。同様の箇所は、マタイ26章26-30節、ルカ22章15-20節にもある。しかし、意外なことに、中世の写本画やステンドグラス、イコンで描かれる最後の晩餐図で、パンとぶどう酒による聖体制定を主題とするものはきわめて少ない。むしろ圧倒的に、ヨハネ福音書13章21-30節に基づく、ユダの裏切りの予告を主題とするものが多い。もちろん、ユダの裏切りの予告は、マタイ、マルコ、ルカでも最後の晩餐の叙述における重要なモチーフであるが、とりわけヨハネが典拠となっているのは、ヨハネ13章21節にある「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」という言及が重要視され、「イエスの愛しておられた」弟子(使徒ヨハネといわれる)をイエスの近くに描くものが多いからです。
 しかし、きょうの表紙絵は、そのような構成は強調されていない。むしろ、パンとぶどう酒の杯を対称的に、両側の弟子に渡す姿が中心となっている。とはいえ、やはり、弟子たちの顔を見ると、イエスのほうを見つめている弟子が10人いるなかで、左右に一人ずつ、イエスを見ずに他の弟子たちのほうも向いている弟子がいる。また(向かって右側)の弟子のうち一人、左手でイエスのほうを指し、一人は右手で自分自身を指している。つまり、ここでも、「裏切る者がいる」というイエスのことばに反応を見せている弟子たちの様子が窺われるのである。
 とはいえ、きょうの福音朗読との関係からは、あくまで聖体の制定に関する図として観賞したい。それは、同時にきょうの第1読箇所と第2朗読箇所をともに味わうことになるからである。第1朗読(出エジプト24・3-8 は、シナイ契約の締結の儀式を述べる箇所。ここでは、契約の血に焦点が当てられている。第2朗読(ヘブライ9・11-15)も、やはり自らを贖いのいけにえとしてささげられたキリストの血に注目させる。このようにしてみると、福音の箇所ではパンについて「これはわたしの体である」(マルコ14・22)、杯について「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(同24)と、パンと杯の両方を語っているのに対して、他の二つの朗読はいずれも「血」に注目させているということになる。
 マルコの表現は、ある意味で、パンに対して、「これはわたしの体である」(14・22)といったことばの意味を、ぶどう酒の杯についてのことば「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14・22)によって、いっそう意味を鮮明化させ、核心に至らしめていると言えるかもしれない。この食事のあと、イエスが赴くことになる十字架上での死の意味を、ここで、前もって明らかにしているのである。
 実際の最後の晩餐では、弟子たちはイエスに従い続けるのか、裏切ってしまうのではないかという心の葛藤の中にいたのではないか。中央にいる大きく威厳のあるイエスは、明らかにその弟子たちに自らを聖体の形で与えることで、弟子たちに信仰の決断を迫っている。それは、今、ミサの中で、聖体に現存する主イエス・キリストも同じである。信仰心の揺らぎや生きる道への迷いの中に我々はいつも置かれている。そのような人間の心に、イエス自身が真正面から向かってきている。この食卓のイエスは、まぎれもなく、ミサの中で我々の前におられる主イエス・キリストの姿を映し出しているとも言えるのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

あがないの物語(二)
イスラエル人たちの中には、アロンに若い雄牛像を造らせることに深くかかわった人と、ほぼ全くかかわらなかった人とがいたでしょう。しかし聖書はこのことをイスラエル人全体の罪と捉えます。

小林剛『旧約聖書に見るあがないの物語』「二 出エジプト記」

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