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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年09月26日  年間第26主日  B年(緑)  
「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記11・29より)

70人の長老を集めるモーセ
トゥールのモーセ五書
挿絵 パリ フランス国立図書館 6-7 世紀

 きょうの表紙絵は、第1 朗読箇所である民数記11章25-29節にちなんで、モーセと多数の長老たちが描かれている場面の挿絵を掲げている。詳細部分は、民数記の叙述とは合っていない。たとえば、主である神の手が、白い衣をまとったモーセのほうに右手を突き出している。これは神の姿を見えないものとして決して人物のようには描かないものの、その働きを示すために、神の右の手を空の雲の中から突き出すように描くという伝統にちなんでいる。きょうの民数記の叙述でも「主は雲のうちにあって降り」(民数記11・25)とあるのだが、この絵では、あたかも神殿の中から、そして天蓋で保護されている契約の箱の後ろからモーセに働きかけるような描き方になっている。しかし、この意味合いは、モーセ五書の全体の筋にはかなっていると思われる。いずれにしても、民数記のきょうの箇所においても、またこの絵においても、主である神と民の代表(長老たち)との間の仲介者としてのモーセの役割は鮮やかに示されている。
 朗読箇所だけでなく、民数記11章全体を読むと、荒れ野を旅する苦しみの中からたびたび民が不平不満をモーセにぶつける。その中で取り次ぎ役としてのモーセは苦渋を味わう。その悩みをモーセは主に訴える。朗読箇所にない箇所ではあるが、朗読箇所を受けとめるために必要なところである。すなわち「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます」(同11・14)。それに対して、主は、長老(や役員)を七十名集めるよう命じ、モーセに授けてある霊の一部をとって、彼らに授けると約束する(同11・16-17)。朗読箇所は、この約束が果たされたことを示すものである。旧約では72だけでなく、70も何か完全な数、聖なる数を意味していたらしい。したがって、70人の長老ということには、民にふさわしい十分な数の指導者たちを意味していて、そこにモーセに授けられた霊の一部が授けられた。これは、ある種、モーセと同様の指導的な預言職に聖別されたということも意味している。その直接の結果が、「預言状態」(同11・26-27)といわれている。その上で最後の部分で、モーセは「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」(同11・29)とその思いを語る。
 ここは、預言職というものが神からの召命であり、賜物(たまもの)であること、そのことが主の霊の授与による任職という形で示されているが、ここでの神とモーセ、そしてモーセと長老たちの関係は、見事に父である神と御子キリスト、そして弟子たち、ひいては、神の民すべてとの関係を予兆させ、予告するようなものであり、出来事全体がイエスと弟子たちの間で起こることの予型(前表)となっている。
 先々週の福音朗読からマルコにおける受難予告が始まり、弟子たちの姿勢、生き方を鋭く厳しく教える内容がきょうの福音朗読箇所でも顕著であろう。そこで問題になっているのは、具体的には悪霊追放のわざであり、イエスの弟子(弟子たちとの仲間)でもない人がそれを行っていることである。弟子たちはここでも、イエスと自分たちの特別な関係にこだわっている。それに対して、イエスは「わたしの名を使って奇跡を行」う(マルコ9・39)人々の行為の正当性を告げる。神の働き、イエスの名による行いのうちに、真実には神の働きがあることをイエスは指摘している。弟子たちがどうしても人間的な関係の次元を超えることができないのに対して、神の計画がどこにあるか、そして受難に向かうイエスに従うにようにと呼びかけられていることが、どれほど自分たち、そして人間的な思いを超えたものであるか、厳しい口調で語る。
 ここには、イエスの行いにおいて、ほんとうに神が働いていることのあかしがある。人間の働きを通して神が働く。この真理は厳粛である。弟子たちを選んで教えているイエスであるが、その究極の思いは、やはり「主の民すべてが預言者になる」(民数記11・29)ことなのであろう。神の国の福音を告げるイエスの宣教活動は、人々を救うこと、すべての人が神の国に入ることを目指しているが、同時に、そのことを告げ知らせるための弟子たちの召命をも意図している。キリスト者になるということは、イエスによって救われることであるのと同時に、イエスによって決定的に実現した神の救いの計画を人々に告げ知らせることでもある。その意図が、強く示されているのが、きょうの福音朗読であろう。
 今回は、それを予告するような旧約の民のエピソードを朗読とこの表紙絵を通して、神の救いの計画の深さを味わえたら幸いである。思えば、モーセに導かれる民は40年間荒れ野をさまよう。その後の神の民の歴史(王国と預言の歴史)は、すべてが神の民の信仰を鍛える訓育のためのものであった。それはキリスト者にとっても常に約束と教訓に満ちているのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

はじめに
 イスラエル人たちは古くから、それがいかに神ヤハウェの目から見れば不十分であったとしても、神ヤハウェを信じていました。それなのにイスラエル人たちの国は、他の神々を信じる他の国々によって滅ぼされてしまいました。その後、生き残ったユダの人たちが神ヤハウェを見限り他の神々を信じても、全くおかしくなかったように思われます。なぜ彼らの中に、そうしない人々がいたのでしょうか。

小林 剛 著『旧約聖書に見るあがないの物語』本文より

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