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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年10月24日  年間第30主日  (緑)  
先生、目が見えるようになりたいのです。(マルコ10・51より)

目の見えない人のいやし  
ロッサーノ朗読福音書 
イタリア ロッサーノ司教区美術館 6世紀

 きょうの福音朗読箇所はマルコ10章46-52節で、目の見えないバルティマイをいやす出来事である。道端に座っていたバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)と叫び始めてから、イエスの「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節
)と告げるときに、彼が見えるようになったところまで、個人名も含めて述べられている。その52節に「なお道を進まれるイエスに従った」とあるように、バルティマイはイエスに従う弟子となったことがわかる。つまり、この話は、いやしの出来事であると同時に、一人の人の召命の経緯を物語るものである。
 救いの願いにイエスが応え、イエスの呼び出しに歓喜をもって応えてやって来た彼は、イエスの問いに答えていやしを願う。そしてそれに答えるかのように「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げているときに、彼は目が見えるようになっている。ここでの、心のやりとりが興味深い。中心にあるのは信仰である。「信仰が救う」のである。
 ロッサーノ朗読福音書という初期の朗読福音書の挿絵のこの場面は、イエスが前に身をかがめて立っている男の目に触れているところである。前後には弟子たちが描かれている。このバルティマイの出来事であるかどうか、道端に座るバルティマイを描く絵などに比べると、そこははっきりしない。
 目をいやす行為について、マルコのこの箇所では述べられてはいない。ただ、「あの男を呼んで来なさい」というイエスの言葉に従って、人々が「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)と言うと、バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」(50節)とある。つまり、立ってイエスの前に立っていることになる。他方、マルコのこの箇所の並行箇所とされるマタイ20章29-34節では、二人の盲人のいやしの話になっていて、道端に座っていた二人の前でイエスが立ち止まり、彼らを「深く憐れんで、その目に触れられると」(マタイ20・34)、彼らはすぐに見えるようになったとある。ちなみに、もう一つの並行箇所ルカ18章35-43節では、一人の盲人のいやしの話になって、イエスが彼をそばに連れてくるよう命じて、彼が近づき、望みを告げると「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ18・42)と、イエスのことばがいやしの原動力であったことが強調されるかたちになっている。
 これらすべての描き方、イエスの救いの力のあかしの仕方を総合するものとして、この絵を鑑賞していってよいのかもしれない。イエスの前に立つ男は、すべてをゆだねる気持ちにあふれている。イエスは、その男の気持ちを全身で受けとめ、手で目に触れている。それは、男の信仰を認め、受け入れ、応える真摯(しんし)な姿勢である。その男が身をかがめていやしを受ける姿勢は、そのまま、礼拝者の姿といえるのではないだろうか。この男は、弟子として呼ばれる出来事のうちに、すでに礼拝者であることが示されている。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10・47)ということばである。「ダビデの子」とは、「救い主」がかつての理想の王の系統から現れるという民の期待が込められている称号であり、「先生、目が見えるようになりたいのです」(10・51)も、ここでは「わたしの先生」とか「わたしの主」という強い意味があるらしい。こうした、呼び名、「わたしを憐れんでください」という叫び、これは、すでにイエスを神の子・主として賛美する信仰宣言にほかならず、すでに賛美の響きをもっている。その信仰を受け入れたイエスの「行きなさい」(10・52)ということばは、この男に対するいやしと解放の宣言であると同時に、イエスの弟子としての派遣のことばでもある。イエスの中に働く神の力を知り、素直にその働きに自分を委ねた男に対して、イエスは信頼をもって応え、いやし、派遣する。
 この関係は、実はまったくミサの姿の輪郭を示しているといえる。我々は、救い主キリストに呼び招かれた者として集い、この集いの主として現存しておられるキリストに対して「主よ、あわれみたまえ」と叫ぶのは、バルティマイの気持ちと重なる。そしてミサの最後には、ともにおられる主によって、「行きなさい、主の平和のうちに」と告げられ、弟子として、礼拝者として、宣教者として派遣されるのである。このバルティマイとイエスとの出会いの経験は、すべてのキリスト者とキリストとの出会いの体験に響き合う。人は、救い主の存在と到来を感じ取り、積極的な反応を示していくなかで、神のいのちの次元へと開かれていく。我々にとっても、ミサの最後に告げられる「行きなさい」ということばには、そのような新しい道への力強い招きがあることを味わっていきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

あわれみの賛歌
 イエスのゆるしの恵みが本当に分かれば、ミサは私たちにとってカとなっていくことでしょう。もはや、人間関係の摩擦と衝突に、それほど悩まなくてもよいことが分かってくるはずです。お互い同士、本当には分かり合えない私たちがいてもいいのです。そのような私たちのすべてをご存知の方が、私たちをともに呼び、招いていてくださっているのです。私たちがそのような者であるからこそ、イエスはこのミサの交わりの中に私たちを招いてくださるのです。

吉池好高 著『ミサの鑑賞――感謝の祭儀をささげるために』「第2部 ミサ式次第に沿って――開 祭」本文より

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