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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年10月31日  年間第31主日  (緑)  
あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい。(福音朗読主題句 マルコ12・30、31より)

すべての人を愛されるキリスト 
イコン 
キプロス アラカパス教会 16世紀半ば

 「イエス・キリスト、人間を愛される方(フィラントローポース)」という文字が記されたキリストのイコンである。きょうの福音朗読箇所(マルコ12・28b-34)で、神への愛、隣人への愛を教えるキリストのことばを味わうために実にふさわしいといえるのではないだろうか。
 この教えは、一人の律法学者が最も重要な掟をイエスに尋ね求めるという形で質問を差し向けたときの答えとして告げられる。イエスの答えを素直に受け入れた律法学者に対して、イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言う(マルコ12・34)。しばしばイエスは律法学者を批判するのに対して、ここでは、適切な答えをしたということで、その律法学者をいわば認める形になっている。ここも、イエスの弟子になった人の召命の実例が反映されているようにも思われる。
 そしてこの出来事を通して、もちろん重要なのは、二つの愛の掟が、旧約の律法(モーセの律法と考えられる)の確認として告げられていることである。第一の掟は「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12・29-30)。これは申命記6章4-5 節、ちょうどきょうの第一朗読箇所(申命記6・2-6)に含まれている内容である。そして第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)。これはレビ19章18節の内容である。「愛しなさい」が共通する、この二つの箇所を最も重要な掟として取り上げたという、卓越した律法解釈をイエスが示したことが耳目を奪う。すでに律法の中に大切な掟は語られていたというところがユニークである。
 このことを印象深く伝える、マルコをはじめとする共観福音書(並行箇所マタイ22・34-40;ルカ10・25-28)の役割は大きい。ヨハネ福音書において愛の掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34;15・12も参照)となり、イエスと我々との関係として愛が語られることも、もちろん重要だが、共観福音書が示すのは、この愛の掟が最初から律法の中にあった、そもそもの神のみ旨であるということである。このことを浮かび上がらせたというところに、イエスのやはり神的な知恵が窺われる。こうした意味合いを、パウロは「愛は律法を全うする」(ローマ13・10)というかたちで見事に語っている。
 モーセを通して授けられた十戒も、出エジプト記20章3 -17節を見ると、冒頭の部分には神に向かう態度についての掟(ほかに神があってはならない。像を造ってはならない。主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を心に留め、聖別すること)があり、続いて、人に対する態度についての掟(殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない、隣人に関して偽証してはならない。隣人の家など隣人のものを欲してはならない)が来る。禁止命令的な言い方が多くとも、これらは究極的には、主である神を愛すること、隣人を愛することの両方の面での愛を教えている理解することができる。ここにある根本精神がイエスの教えを通じて二方向の愛の掟として集約されているといえる。
 それは、もとより、イエスが神の御子であり、御父のみ旨を体現する方だからである。御子としてのキリストのみ顔は、御父である神の姿も同時に仰ぐことができる。イコンのキリストは、そのようにそれ自身のうちに御父の姿をも含んでいるようである。その神は、すべての人類を愛される方である。このキリストの姿には、ヨハネ福音書的な愛の掟が響き合う。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34;15・12も参照)と。神を愛すること、隣人を愛することを、掟としてだけ聴くと、何か大変な課題を果たさなくてはならない義務のように感じられかねない。その愛は、しかし、自分たちの中に原動力があるものではない。我々はキリストの存在、その生涯、その死と復活を通して注がれる聖霊によって促されて初めて神への愛も隣人への愛も果たせるようになっていく。その根幹にいるのは、キリストである。イエス・キリストこそが父への愛、人々への愛を究極的なところまで実行したものと思われる。それゆえに、絶えず、我々にその「愛」の力をもたらす方となっている。
 第2 朗読のヘブライ書の朗読がそのことに関係してくる。「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職をもっておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ7・24-25)。まさしく、これがミサのうちに現存しておられるイエス・キリストの役割である。「聖霊の交わりの中で、あなたとともに生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリスト」と、集会祈願の結びで告げられるような御子キリストの祭司職が、ミサの全体に満ちておられることを、きょうの愛の掟と、このイコンのキリストの姿を通して、精一杯感じ取ってみよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

はじめに
 法華経の「長者窮子のたとえ」は、仏教的慈悲とその救いの焦点をみごとにいい表している説話であって、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえが意図するものとは、素材の酷似にもかかわらず、およそ異質なものがあるということは、増谷氏の指摘するとおりである。しかし、その相違は、「感情」と「理性」というだけの差異ではない。放蕩息子のたとえのなかでは、キリスト教的愛である「アガペー」が説かれているわけであるが、ここにおいて、特に注目すべき点は「愛の無条件性」と「父子の関係」ということである。ルカ福音書においては、放蕩息子が、どんなみじめな姿になってしまったとしても、「父のもとに帰ってきた」ということだけが重要である。

『奥村一郎選集 第1巻 慈悲と隣人愛 解説:西村惠信(前花園大学学長・(財)禅文化研究所所長)』本文より

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